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概要編集

本名は可児吉長(かに よしなが)。


宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだとされ、槍の名手として知られた。

そのため、非常に武勇に優れ、戦いにおいては常に多くの敵の首を討つことがあったが、討った敵の数が多くてとてもすべての首を抱えることが出来なかった。このため、才蔵は笹の指物を背負って戦い、指物の笹の葉をとって討った首の切り口に入れておいた(あるいは口にくわえさせた)ことで、才蔵の討った首と合戦の直後にすぐにわかったという。これらの経緯から、「笹の才蔵」と称された。


経歴編集

天文23年(1554年)、美濃国可児郡(現在の岐阜県南部)に生まれ、幼少期を願興寺で過ごす。


当初は斎藤龍興に仕えていたが、それからは織田信長の家臣であった柴田勝家明智光秀前田利家等と主君を転々と変えていたが、最終的に福島正則に仕えることとなる。


天正18年(1590年)、小田原征伐では、北条氏規が守備する韮山城攻撃に参加し、先頭に自ら立って攻撃した。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、福島軍の先鋒隊長として参加し、前哨戦の岐阜城の戦いでも、関ヶ原本戦でも敵兵の首を17も取り、徳川家康からも大いに賞賛された。

この武功により、正則から500石を新たに知行として与えられた。後に746石に加増された。


才蔵は若い頃から愛宕権現を厚く信仰していたため、「我は愛宕権現の縁日に死なん」と予言していたとされる。そして、慶長18年(1613年)6月24日の愛宕権現の縁日の日、潔斎して身を清め、甲冑を着けて床机に腰掛けたまま死去した。享年60歳。


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戦国武将 福島正則

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