戦国時代末期の武将。徳川家康の一族で家臣。「家忠日記」の著者としても有名。
概要
プロフィール
生没年:1555年〜1600年
通称:又八、又八郎
官途名:主殿助
生涯
徳川氏(松平氏)の傍流にあたる深溝松平氏の3代目当主である松平伊忠の長男。
徳川十六神将の一人だが家忠の代わりに長沢松平家8代当主である松平康忠を加える場合もある。
1575年の長篠の戦いで父・伊忠共々酒井忠次の麾下に組み込まれ武田勝頼の叔父である河窪信実が守る鳶ノ巣山攻撃に従った。この時、伊忠が戦死したため戦後家督を継ぎ深溝松平氏の4代目当主となる。その後も家康に仕え、合戦・外交双方において家康を支えた。家康の関東転封に伴い「のぼうの城」で知られる武蔵国埼玉郡忍城(埼玉県行田市)1万石を与えられた。最後は鳥居元忠の副将格として内藤家長らとともに伏見城で石田三成・宇喜多秀家らの軍勢を迎え撃ち、壮絶な最期を遂げた。享年46。
家忠日記
家忠が後世に名を残しているのは戦国時代末期の一級資料である「家忠日記」の存在である。
その名前の通り家忠が家督を継いだ天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)10月までの17年間、その日に何があったか書いた日記である。内容はその日に起きたことから、天候、領民が持ってきてくれた贈り物、徳川家中の動向など様々。だが日記が書かれた時期は、歴史上に当てはめると「長篠の戦い」〜「文禄の役」の翌年という激動の時期であり、それゆえこの日記は当時の世情、風俗、歴史的事件の詳細を知るには第一級の資料である。
なお、家忠日記の特徴として自身の思想や考察がほとんど描かれておらず、大部分が記録として簡潔に記述されていることがあげられる。
この日記により裏付けられた歴史上の出来事も多く、
- 信長の家臣として取り立てられたとされる弥助なる男性について、家忠日記には「名は弥助、身の丈六尺二分、黒人男性、身はすみのごとく」と記載しており、存在を確実視させた。
- 天正8年(1580年)6月15日、皆既月食が起きたことを記録している。
- 日本最古の将棋の対局図が描かれている。なお、専門家曰く記録されているプレイヤーはあまり腕のいい棋士ではないようで...
- 日本最古?の人魚の想像図が描かれている。なお、そのイラストは結構独特である。
など徳川氏周辺の外交関係や当時の風俗・世情を知るのには欠かせない資料となっている。
その重要性から、2020年には国指定重要文化財となった。
余談
- 十六神将では「康忠 または 家忠」とされているが、康忠の長沢松平氏は一時期家康の六男・松平忠輝が継ぐも改易されたこともありほぼ断絶に近い形を迎えたのに対し、深溝松平氏は祖父・好景、父・伊忠そして家忠と当主が三代続けて合戦で戦死したこともあり幕府から重用され家忠の息子・忠利の代に1万石の石高は据え置きのまま発祥の地・深溝に移封ののち3万石への加増のうえ吉田藩(豊橋市)に移封。その後、孫の忠房の代で最終的に6万5千石への加増を受け肥前島原藩主となり、明治維新まで定着した。
- 家忠日記には様々なことが書かれているのだが、家忠が家康にお願いをしてまで通称を「又八」から「主殿助」に改めたことも記録されている。家康から許しが出た際はよほど嬉しかったのか、お祝いの席でもろ肌を脱ぎ、扇子を投げるなどして浮かれまくってたらしい。
- 深溝松平氏の地元・深溝に対する愛着は深く、幾度の転封を経ても、深溝松平氏歴代当主は亡くなると深溝の菩提寺に葬られるのが習わしとなっていた。そのため、深溝にある菩提寺・本光寺には歴代深溝松平氏の当主の墓が揃っており、特に7代・忠雄の墓が大雨に被災した際に内部に膨大な副葬品が確認されたことが話題となり、墓所全体が国指定の史跡となっている。
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そのほかの重要な日記など