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渡辺守綱

わたなべもりつな

渡辺守綱とは戦国時代~江戸時代前期の武将。徳川家家臣。

概要

天文11(1542)年~元和6年4月9日(1620年5月11日)。
渡辺高綱の子。熱心な一向宗の門徒でもあり、戒名は守綱院殿釈道喜居士
徳川家康の家臣として戦国時代に活躍した武将で、徳川十六神将の一人に連なり、「鬼半蔵」の異名で有名な2代目服部半蔵・正成に並ぶ「槍半蔵」の異名で数多くの戦に参戦して、三河武士に恥じない数多くの戦功を重ね、立身出世を果たしている。
また、家康と同年代ながらも彼以上の長寿(享年・79歳)で生涯を終えている人物でもある。

若い頃より家康に仕える身であり、今川義元織田信長率いる軍に討たれて家康が三河で独立した後に起きた「八幡の戦い」では、徳川軍の先陣が崩壊する中で踏み留まって、今川軍の攻勢を凌ぐ奮戦振りを見せた事から、家康から「此度の戦の勝利は、半蔵の槍一本の力である」と武勇を称えられ、以降は「槍半蔵」の異名で呼ばれる事になっている。
しかし、一向宗の門徒であったが故に、翌永禄6年(1563年)に勃発した「三河一向一揆」において、父や本多正信等と共に一向一揆に加わり、一度は家康と袂を分かつ事になっている。

徳川軍によって一揆が破れた後、家康に帰参を許されて以降は、生涯に渡って彼に忠義を誓う道を選び、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、長篠の戦いといった徳川軍にとって重要な戦いでは必ずと言って良い程参戦しては、一番槍をあげる等といった形で武勲を挙げ続けており、特に長篠の戦では、武田信玄の重臣である山本勘助の嫡子を討ち取っている。
これらの戦功もあって、一度は家康に反旗を翻した身でありながらも、正信と同様に家康からは大きな信頼を得る武将の一人となり、家康の関東移封後は武蔵国比企郡に3,000石を与えられ、足軽100人の組頭となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは足軽頭から旗本ととして参戦。その後は長年の功績を賞せられて1,000石を加増、騎馬同心30人の給分6,000石も付属させられている。

慶長13年(1608年)には、尾張国に入った家康の九男・徳川義直の家老となり、武蔵の4,000石に加えて尾張藩より5,000石、幕府より5,000石を与えられ、併せて1万4,000石を領して寺部城を居城とする等、更なる出世を重ねている。
この時には家康と同様、既に60を超えた年齢であったが、武将としての衰えは一切見せておらず、大坂の陣でも冬の陣、夏の陣に参加し、当時においては僅かに残っていた徳川家歴戦の武将の一人として活躍。武将として初陣となった義直を支えている。

家康、正信が死没し、太平の時代となってから5年後となる元和6年(1620年)、生涯に渡って戦の中を駆け抜け続けたその生涯を終える事となった。享年79歳。

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戦国武将
徳川軍 
徳川家康:主君

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