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松平長七郎

まつだいらちょうしちろう

江戸幕府三代将軍・徳川家光の弟に当たる駿河大納言・徳川忠長を父に持つとされている架空の人物。後に村上元三が長七郎を主人公とした歴史小説『松平長七郎旅日記』を発表して広く知られるようになり、テレビ時代劇『長七郎天下ご免!』(1979年-1982年、テレビ朝日)、『長七郎江戸日記』(1983年-1991年、日本テレビ)が、いずれも里見浩太朗主演で作られている。
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伝説上は「駿河大納言」徳川忠長の遺児で母親は鷹司家の出とされているが、忠長に実子がいたことは史料上確認されておらず、また実際の忠長の正室は織田信長の次男・織田信雄の子である織田信良の娘である。


伝説上の生い立ち編集

慶長19年(1614年)(元和7年(1621年)生まれとする説もあり)、忠長と鷹司家出身の女性との間の子として生まれる。寛永10年12月6日(1634年1月5日)に父・忠長が上野国高崎(現・群馬県高崎市)の願行山大信寺にて非業の死を遂げた後、高崎城に幽閉されるが、命を助けられて捨扶持を与えられる。後に江戸に出て大橋隆慶の元で将棋を学んで後に上方へ諸国漫遊に出る。途中、大叔父である紀州藩(紀伊藩)初代藩主・徳川頼宣への謁見を許される。頼宣は長七郎の身の上に同情して厚遇する。更に旅を続けた長七郎は、伊勢国(現・三重県)で賊に襲われた江戸の商人・木綿屋新兵衛父娘を救うが、新兵衛は娘・みつを託して死亡し、以後みつとともに大坂にて暮らす。その後、同地にて新兵衛を殺害した賊を見つけた長七郎がこれを斬り殺し捕らえられるが、大坂町奉行は長七郎が徳川将軍家の一族であることを恐れ放免した。

やがて島原の乱が始まると、長七郎は妊娠していたみつを頼宣の仲介で鷹司家に預けて、板倉重昌松平信綱の配下として幕府の討伐軍に加わった。乱後、家光から大名取立ての話があるもこれを受けず、頼宣の客分という立場で各地を旅した(『長七郎天下ご免!』OPナレーションでは、長七郎が大名暮らしを返上したくだりは同じだが、天下御免・生涯勝手のお墨付きを受けて諸国漫遊の旅に出た、とされている)。やがて、寛文元年(1661年)に和歌山にて48歳の生涯を閉じる(延宝4年12月25日(1677年1月28日)に56歳で逝去した説もあり)。みつが生んだ男子はそのまま鷹司家で育てられ、鷹司松平家の祖・松平信平になったとされている。


長七郎のモデル編集

以上が、伝えられている長七郎の生涯であるが、忠長が慶長11年(1606年)生まれであるため、これでは忠長が9歳のときの子供になってしまう事になる。

鷹司松平家の祖となった実際の松平信平は、公家鷹司信房(鷹司家13代当主)の息子である。信平は徳川家光の正室・鷹司孝子の弟であり、江戸に下向して松平姓を賜り、7000石を与えられて旗本になった。さらに、その孫の松平信清は3000石を加増されて大名になった。このように、公家から武家への転身を果たし、さらに子孫が大名となるという極めて特殊な経歴から、信平は実は徳川将軍家の血筋の人物であったという風説が生み出された。

そしてその結果、しばしば松平長七郎と鷹司松平家の当主の経歴が混同され、この松平信平を長七郎本人あるいはその子としたり、その孫・松平信清を長七郎の子や孫とする説が生まれたが、現在では誤りとされている。また、忠長の従兄弟の松平忠直結城秀康の嫡子、家光・保科正之徳川光圀らとも従兄弟にあたる。)が改易後、配流先で産ませた永見長頼とも混同され、永見長頼を長七郎とする説も出たが、これも誤りとされている。忠長は妻を娶っていたが、子はいなかったというのが、現在では史実とされている。

また、生没年に異説があるが、これは長崎県長崎市の田上寺にて後年建てられた長七郎の墓と伝えられる墓石からの情報を元にしている。

ちなみに、堀内信が1931年(昭和6年)に出版した、「南紀徳川史・第5冊」によると、高崎藩主になった経験のある松平信吉の実弟松平忠頼(慶長14年(1609年)に死去)の三男で伊勢桑名藩松平定勝の養子になり、さらに紀州藩士になった松平忠勝は通称を長七郎と称しているために同姓同通称だが、これについては全く関係はない。

ちなみに、忠勝は後に暇をもらって山城国に閑居し、寛文4年(1664年)に死去している。忠勝の家から14代将軍・徳川家茂の生母である実成院が出ている。


時代劇での長七郎編集

『長七郎天下ご免!』(1979年-1982年、テレビ朝日)編集

長七郎は諸国漫遊の旅を終えた後、大久保彦左衛門(演:伴淳三郎)の世話により結城長三郎と名乗り、日本橋仕出し屋(ナレーションでは炊出し屋となっている。現代で言うところの弁当屋にあたる。)・浜乃家に居候兼用心棒として暮らし、仕出しの弁当作りの手伝いや出前も率先して行っている。


『長七郎江戸日記』(1983年-1991年、日本テレビ)編集

年齢は第2シリーズ年末スペシャル(SP)「ふたり長七郎・京の舞い」にて三十路過ぎ(ただし、第1シリーズ第6話の長七郎の回想にて、「父・忠長が亡くなったのは5歳の時だった」と述懐しており、この場合、寛永6年(1629年)、忠長が24歳の時に生まれたと推測されている。)、身長は同シリーズ初回SP「千姫有情、母ありき」にて手配書によると五尺八寸(約175.7cm)とされている。髪型は総髪だが、城で暮らしていた頃は普通の武家髷だった(第1シリーズ第4話)。伯父の3代将軍徳川家光に対する憎しみはあまりなく、自分を大名に取り立てて利益を得ようとする者たちに利用されることを恐れ、浪人・速水長三郎として読売屋(いわゆる瓦版屋。)「夢楽堂」で居候している。第2シリーズ最終回SP「最後の挑戦・さらば長七郎」で江戸を離れ、三宅宅兵衛(演:下川辰平)を連れて2年間旅に出ていたが、第3シリーズ第1話で柳生宗冬からの依頼で江戸へ戻り、大奥から脱走していたおはる(演:立花理佐)を助けたことから口入屋(現在でいう所のハローワークにあたる)の「浪花屋」に居候する。冷静沈着で明晰な頭脳と常人離れした身体能力を兼ね備えている。流派は柳生新陰流で、丹波哲郎演じる同作の黒幕・柳生宗冬に師事した。但し、「速水長三郎」の時は一刀流、正体を明かし「松平長七郎」になった際は二刀流と必ず使い分けている。趣味は魚釣りで作中で釣竿を持って出かけたり、辰三郎(演:火野正平)や右平次(演:加藤純平)と一緒に釣りをするシーンがしばしば見受けられる。


関連項目編集

長七郎江戸日記 宇津井健(1962年公開の大映映画・「陽気な殿様」にて市川雷蔵演じる主人公・榊原隼之介や坪内ミキ子演じる弥々姫と三角関係に陥る長七郎を演じた。) 里見浩太朗 長七郎天下ご免! 時代劇 テレビ朝日 日本テレビ

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