概要
本名:丹波正三郎(1922年7月17日~2006年9月24日)
出演した映画は300本以上に及ぶが、台本を読まず、役作りはせず、観客・視聴者の事は考えずに目の前の監督を喜ばせることのみを考えるという特異な俳優であった。
大らか過ぎて現場には遅刻してくる事が多かったが堂々としていた。
自ら立ち上げた『丹波プロダクション』や俳優養成所『丹波道場』(宮内洋等を輩出)の社長でもあった。
長男の丹波義隆も俳優となっている。
来歴
1922年7月17日、大久保町(現在の新宿区)で陸軍薬務官・丹波緑川の三男として誕生。
平安時代の貴族で医者の丹波康頼を先祖に持ち、子供の頃は常に爺やが側に仕え「あれが欲しい」というと持ってくるので、お金というものを知らずに育った。
中央大学在学中に学徒出陣し近衛歩兵第5連隊に入隊するが、態度が大きいため度々体罰を与えられた。
1945年、中央大学に復学し、1948年に卒業。油糧砂糖配給公社に就職。
1950年、劇団文化座に入団。
1951年、新東宝に入社。
1952年、DFプロダクション制作・新東宝配給の映画『殺人容疑者』で、主演級でデビュー。
1959年、丹波の「新東宝の作品のレベルが落ちている」という発言が問題となり、新東宝を退社しフリーランスとなる。五社英雄監督に師事し、第二東映の映画に出演。
1961年、 第二東映と新東宝の合併が破談となり、ニュー東映に改称。年末にニュー東映は東映に合併された。以降、丹波は二枚目・悪役として、主に東映の映画に出演し、『007は二度死ぬ』などの洋画にも出演した。
1968年、TBS系で土曜夜9時から放映されたテレビドラマ『キイハンター』に主演。同時間帯の後続ドラマの『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』にも出演し、約13年にわたり顔となった。
2005年、インフルエンザと虫垂炎のために入院し、体が弱る。
2006年9月24日、肺炎のため死去(84歳)。
心霊研究家として
- 丹波は心霊学と霊界に深い造詣を持ち、霊界の存在を確信していた。
- 1987年、『丹波哲郎の大霊界』(学研)を出版しベストセラーになった。1989年に『丹波哲郎の大霊界・死んだらどうなる』(配給:松竹富士)として映画化し、脚本を務めた。映画もヒットしたため2本の続編が制作された。
- 交友のあった霊能者・稲川りよ子によれば、死後の丹波から約一年近く生前の約束通り霊界通信があり、「世のため、人のために尽くし明るい笑顔で人生を頑張ったのちには、それに見合った素晴らしい世界があります」という旨のメッセージが送られて来たという。