生没年 1588(天正16)年~1638(寛永15)年
官位 従五位下・内膳正
経歴
徳川家康の家臣である板倉勝重の次男。勝重は有能な官僚として知られた人物で、初代京都所司代を務めた。
重昌も武よりも智で晩年の家康に近習として仕えた人物であり、大坂冬の陣での戦後処理などを評価され、家康没時には三河深溝(愛知県幸田町)で5,000石を領する大身旗本となっていた。
その後1624(寛永元)年に父の勝重が亡くなった後、兄の重宗と遺領を分割し、更に検地による高直しによって1万5千石を領し、幕府内でも将軍の親衛隊長である御書院番頭を務めるなど順風満帆なキャリアを送っていた。
それが一変したのは1637(寛永14)年に発生した島原の乱であった。
討伐軍の大将に任命された重昌は、副将の石谷貞清と共に九州へ向かったが、1万5千石の重昌と1,500石の旗本である石谷では数万石から数十万石にもなる参加大名たちを完全に統制することは無理であった。
重昌は2度にわたって一揆勢が籠った原城を攻撃したものの失敗、さらに第二次上使として老中・松平信綱が派遣されたことを知った重昌は、信綱の到着までに原城を落とさなければ自身の面目が立たないと考えた(信綱の派遣は「重昌が終わらせたであろう一揆の後始末」のためであり、将軍・徳川家光も含めた幕府上層部は乱の規模を甘く見ていたことがうかがえる)。
1638(寛永15)年2月14日・旧暦1月1日、重昌は3度目の城攻めを命じるも失敗、4,000名もの死傷者を出した挙句、重昌自身も眉間に銃弾を浴びて討ち死にした。享年51。
重昌の死後に跡を継いだ嫡男の重矩は、重昌敗死に連座して乱後に謹慎処分を受けるが、後に許され最終的に老中へ昇進。所領も重矩没時には下野烏山5万石まで加増された。
その後は嫡流が陸奥福島3万石で(戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加したことをとがめられて、三河重原(愛知県刈谷市)2万8千石へ転封)、庶流は備中庭瀬(岡山県岡山市)2万石で明治を迎えた。