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大東諸島

だいとうしょとう

沖縄県東端の島嶼群。有人の北大東島、南大東島と、無人島の沖大東島で構成される。
目次 [非表示]

概要

沖縄県の東部、沖縄本島から見て東に340km離れた場所に位置する。三島の周囲100km四方に隣接する島の無い「絶海の孤島群」である。

人口は南大東島に1,400人、北大東島に700人ほど。沖大東島(別名ラサ島。「ラサ」とは、ラテン語で「平坦な」という意味の「rasa」に由来。)は現在は無人島。


握り寿司(大東寿司)と沖縄そば(大東そば)が名物料理で、和太鼓(大東太鼓)や神輿などの八丈島系の文化と、三線エイサーなどの琉球文化が入り混じる。

サトウキビの大規模栽培で経済的にはかなり豊かであり、沖縄本島や本土から出稼ぎに来る人々も多い。


略歴

日本領となるまで

古くは「ウフアガリの島」と呼ばれ、はるか東にある無人島として知られていた。「ウフアガリ」とは琉球語で「東の涯て」を意味し、「大東」の漢字表記は「ウフアガリ」に該当する意味の漢字を当てたものである(これを音読みにして「だいとう」)。


1885年、日本が南大東島北大東島の領有を諸外国に宣言。沖縄県に編入される。

1900年、日本がラサ島の領有を諸外国に宣言。沖大東島として沖縄県に編入される。


南大東島

1900年、八丈島の豪商だった玉置半右衛門が組織した23人の開拓団が南大東島の西側海岸に到着。断崖を登り島内に入る事に成功した。

1902年、玉置商会黒砂糖の製造を開始。「30年後に土地が与えられる」という約束で入植者を募った。島内では玉置商会の商品券である「南北大東島通用引換券(大東島紙幣)」が通貨として使用された。


1910年、玉置半右衛門が死去し、息子たちは土地を与える約束を反故にした。遺産を巡る争いから玉置商会は経営難となり、1916年に東洋精糖と合併。

1927年、親会社鈴木商店が経営破綻したため東洋製糖は大日本製糖に吸収合併された。

島は大日本製糖の社有地であり、会社は強権的に島民を支配し、日本の行政がおよばず町村制は施行されなかった。会社は八丈系島民と沖縄からの移民の対立を煽り、分断統治を行った。


太平洋戦争に日本が敗れ沖縄がアメリカの統治下に置かれた結果、1946年、初の自治行政が施行され「南大東村」が成立した。

1964年、島民が琉球列島高等弁務官ポール・ワイアット・キャラウェイ中将に直訴した結果、会社による支配が終わり島は民主化された。このため島内にはキャラウェイ中将の銅像が立てられるなど偉人扱いである。(沖縄では嫌われ者)


北大東島

1903年、南大東島からの開拓団が入植し、玉置商会の社有島となる。こちらの海岸は南大東島以上の断崖絶壁だった。

島の開発は長らく手つかずだったが、1919年に東洋精糖が始めたリン鉱石の採掘が島の主要産業となり、沖縄県出身の鉱夫が島民のほとんどを占めた。

1927年、東洋製糖は大日本製糖に吸収合併され、北大東島のリン鉱山の経営権も大日本製糖へ移った。


1946年、アメリカ軍政の開始により村制が施行され、「北大東村」となる。

リン鉱山は琉球列島米国軍政府の直轄経営となったが、重機による大規模な採掘でリン鉱石の品位が低下し、1950年、閉山となる。閉山後、島は急速に寂れていった。

現在はサトウキビ栽培が主要産業である。


沖大東島

1543年、スペインベルナルド・デ・ラ・トーレが発見し、「マル・アブリゴ」と命名。

1807年、フランス軍艦カノニエル号が「ラサ島」と命名した。


1900年、中村十作内務省にラサ島の借用願いを提出し、ラサ島が実在の島であることを確認した内務省は沖縄県に訓令を発し、沖大東島として沖縄県島尻郡に編入された。(中村十作の借用願いは却下)

1903年、沖縄県土地整理事務局による沖大東島の探検が行われた。南大東島の南、約160キロメートルにある珊瑚礁の小島で、海岸線は断崖となっているのが分かった。

1906年、玉置半右衛門が送った調査船に乗っていた水谷新六が、島からリン鉱石を持ち帰る。

鉱山の開発権をめぐって泥沼の争いがあったが恒藤規隆が掌握に成功。1910年、日本産業商会が設立された。

1911年、ラサ島鉱業所が創業し、1913年、ラサ島燐礦株式会社が設立された。地方自治が敷かれなかった沖大東島はその支配下に置かれた。


1928年、採掘条件が良い鉱石が減少しラサ島鉱業所は閉鎖される。

1933年、日本が国際的孤立を深め、リン鉱石の輸入が不安視されたためラサ島鉱業所が再開される。

1934年、日本産業商会はラサ工業に改名。

1937年、沖大東島はラサ工業に払い下げられた。

1944年、ラサ島鉱業所が閉鎖された。


1946年、アメリカ軍政の開始により沖大東島は「北大東村」に編入された。1950年代には無人島となる。


1956年、アメリカ海軍の訓練を行う沖大東島射爆撃場となった。

1972年、沖縄返還により日本の国有地となるが、ラサ工業の所有権を認め、1973年に民有地に訂正された。その後はラサ工業に基地使用の借地料が支払われている。


地理的事情から来る沖縄本島との隔絶

大東諸島は古来ニューギニア島近海にあった海底火山が日本列島付近に徐々に移動し、隆起してサンゴ礁となった後、海上に姿を現したものと考えられており、大陸と繋がったことが無い。大東諸島周辺の海域は島を出るとすぐに海底下4,000mにも及ぶ深海となっており、海中地形的に見ても完全に孤立している。こうした事情により、沖縄本島との間に海底ケーブルが長らく曳かれなかった(2011年にようやく敷設)。


また、沖縄本島・那覇市からあまりにも遠く離れている上、先島諸島などと違い人口規模も極端に小さかったためにテレビ局や中継局が敷設されず、ケーブルテレビによる地上波放送の再送信で代替している(同様の方式は東京都本土と小笠原諸島間で見られる)。アナログ時代においては前述の海底ケーブル問題もありそれすらままならなかったため、当時小小笠原に対して実施されていた難視聴対策用衛星中継回線を利用した中継方式が取られた。これは大東用に沖縄にシステムを新しく作るわけではなく、東京で実施されていたものをそのまま流用したのである。つまり、在沖局ではなく、小笠原向けの関東広域局(キー局)の電波が届いていた


このため、アナログ時代は沖縄用の情報を大東の住民が受け取るには文字情報を電話回線を使って送信するしか無いという苦肉の策が取られていた。一方、これによりアナログキー局で放送されている首都圏・全国域の番組が何れも全国最速レベルで視聴可能であった。もちろん深夜アニメもである

もっとも大東諸島の住民にそれらの恩恵は殆どメリットが無く、デジタル化と海底ケーブル敷設を機に在沖局のケーブル再送信という形に置き換えられ、大東諸島でのキー局視聴体制は終焉を迎えた。なお、あくまで代替放送という位置づけであり、沖縄県には日本テレビテレビ東京両系列局が無いため、両局を視聴することは不可能であった(TOKYOMXを含め、小笠原向けにはある三局の電波のみ大東向けはカット)。県内の放送局は両局の番組を一部カバーしているため、大東の住人のみこれらの系列番組が視れない状況にあった。


本土との交通手段も限られ、カーフェリーが停泊可能な港が無く、小笠原諸島同様貨客船で沖縄本土と結ばれている。旅客数が少ない上に地形上ロクな港が無いため、旅客を鉄籠に入れてクレーンで釣りあげて上陸するという他に類を見ない乗降方法が体験できる。

他に飛行機があり、所要時間15時間・就航日数が月間4~5日しかない貨客船「だいとう」に代わりメインの交通手段となっている。大東諸島と那覇空港を結ぶ航空路線は日本のコミューター空路としては最長クラスである一方、南大東島と北大東島を結ぶ空路もあり、こちらは距離にして僅か20km、所要時間10分で、遊覧飛行などを除けば世界でも最短クラスの航空路線である。


かつて、北大東島は滑走路が短く、南大東島にワンストップしての航路しか実現できなかった。滑走路延長後は、三角飛びの形で運行が行われている。


各村内交通

南北大東島間は本土との行き来同様貨客船または飛行機で移動となる。各村内に公共交通機関やタクシーはなく、宿泊施設による有償移動が行われている他、レンタカーで自動車・バイク・自転車を借りることが出来る。


関連タグ

沖縄県 離島 小笠原諸島

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