この城は霞城、霞ヶ城、吉字城と呼ばれる平城であり、天守閣を持たない構造の城であった。
この城は広大な敷地を持っていたものの、城主が頻繁に変更され、維持管理が行き届かない面もあり、廃藩置県の際山形県により陸軍が誘致され、ほとんどの建物が破却された(建物として残っているのは移築された御殿と門が一つであるとされる)。
現在、跡地は公園(霞城公園)となっており、石垣、堀が残されているのみである。
歴史
この城の歴史をいくつかに分けて記述する。
それ以前
この土地には城が築かれる以前にすでに人間が居住していたらしく、三の丸の跡地から竪穴住居が発見されている。またこの城のある土地は羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心であったと推測される。
最上氏
南北朝時代である延文2年(南朝:正平12年)に斯波兼頼(奥州探題であった斯波氏の一族であり、戦国時代に活躍した最上氏の祖、南北朝時代には北朝につく)がこの地に城を作ったのが始まりである。
この城は最上氏の居城となった。また、支城も複数作られたとされる(これらの城は一部は使用されたものも存在するが、上杉氏に攻められ破壊されたものや最上氏の改易時に破却されたものが多い)
その後戦国時代後期、最上義光がこの城をもとに城を三の丸まで拡大し、城下町を整備した。この時には57万石の石高を誇った。
江戸時代
その後、義光の後継争いが発生したりし、最上家は内紛が絶えず、元和8年に改易され、新たな城主として鳥居忠政(徳川家康の家臣、大坂の陣で江戸城の留守居を任されるなど信頼厚い模様)がこの城に入った。奥州の諸大名(伊達家、上杉家や佐竹家など)を監視する目的もあったとされる。この際、城の一部を改修している模様である。
その長男である鳥居忠恒が末期養子を認められず改易された以降は親藩・譜代の大名が指定されるが、どうも懲罰的側面があるらしく、おおむね短期間で転封されている。また一時天領にもなっている。
この城に配属される大名も石高も抑えられていた(最終的には5万石であった)ため、城の満足な維持管理ができずこの城は荒れた状態であったと伝えられる。
幕末においてはすでに本丸は更地(二の丸に御殿が存在)であり、三の丸の半分は田畑となっていた、といわれているほどであった。
明治時代
明治時代に入ると、この城のあった土地は山形市が購入、陸軍を勧進することにした。
そのため城内に残存していた櫓や御殿は破却された。さらに本丸や三の丸の一部の堀も埋め立てられた。
この地には歩兵三十二連隊が駐屯することとなった。その後日露戦争の凱旋を記念してこの土地に桜が植樹された。
現在
第二次世界大戦終了後は駐屯していた陸軍が解体されたため、この土地は霞城公園として整備され、桜の名所として有名であるとともに、スポーツ施設や文化施設が設置された。またこの城の周辺は市街地化が進み、三の丸の堀の残りも埋め立てられた。
昭和61年に国の史跡となってからは建物の復元が行われており、門や橋、本丸の復元が行われている。
また、現在城跡の発掘が行われており、地中にある遺跡は保存状態が良いといわれている。