概要
戦名 | 慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん) |
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時期 | 戦国時代(慶長5年(1600年)9月 - 10月) |
戦地 | 出羽国(現在の山形県) |
両軍と各陣営の戦力 | |
結果 | 最上・伊達軍の勝利、最上氏旧領の回復。上杉軍の撤退、庄内地方の喪失。 |
慶長5年(1600年)9月から10月にかけ、会津の上杉景勝と出羽山形の最上義光との間で繰り広げられた戦い。基本的には上杉軍による最上領侵攻から、その失敗を受けての撤退までの一連の流れを指すが、その後の庄内地方での最上軍の反攻や、上杉軍と伊達軍による福島方面での戦闘も含めれば、翌慶長6年(1601年)の春まで両者間の戦闘は継続されている。
この戦に先立って行われようとしていた、徳川家康ら連合軍による上杉討伐(会津征伐)の、そして同時に予てより上杉・最上の間に横たわっていた、庄内地方を巡る遺恨に絡んだ対立の延長線にある戦である。この戦と同時期には、東海・畿内においても親家康勢力(東軍)と反家康勢力(西軍)との間で大規模な合戦が展開されており、これとも密接な関連を有するこの戦を「北の関ヶ原」と称することもある。
合戦までの経緯
庄内を巡る遺恨
出羽の庄内地方(現在の山形県北西部)は、代々当地の有力者であった大宝寺氏(武藤氏)の治めるところであったが、戦国時代に至ってその大宝寺氏が内紛で弱体していく中、庄内地方は当時越後に勢力を有していた上杉氏や、山形を中心に勢力を伸長しつつあった最上氏などの周辺勢力から、その獲得を虎視眈々と狙われる状況にあった。
これに対し、天正年間には時の大宝寺氏当主・義氏が、盟友であった本庄繁長(越後上杉氏家臣)の支援を受け、攻勢著しい最上氏へと対抗していたが、最上義光は大宝寺家中や傘下の国人らの切り崩し工作を展開、これにより義氏やその弟の大宝寺義興が相次いで自害に追い込まれ、最上氏が後援する東禅寺氏(大宝寺氏家臣)に庄内の支配権が移ることとなる。
ところが、程なくして義光が大崎氏の内紛に端を発し、甥の伊達政宗と戦端を開くや、これに忙殺される格好となった間隙を突いて、上杉氏による庄内制圧の動きが本格化。本庄繁長、そしてその息子で大宝寺氏に養子入りしていた大宝寺義勝の軍勢は、十五里ヶ原の戦いや朝日山城の戦いで相次いで最上軍を撃破し、庄内地方は上杉氏の治めるところとなった。時に天正16年(1588年)8月のことである。
この一連の軍事行動は、本来前年に豊臣政権が発令していた、所謂「惣無事令」に反するものであり、義光は徳川家康を通じて上杉の違令を訴えるも、一方の上杉側も重臣・直江兼続が石田三成経由で豊臣秀吉と近しい関係にあり、結果庄内地方を上杉領として認めるとの裁定が下されるに至った。
そして慶長年間に入ると、上杉氏はそれまでの領国であった越後から、新たに会津へと国替えとなるが、この時庄内地方はそのまま上杉領として据え置かれている。これは上杉にとっては、最上の存在が飛び地と化した庄内と会津とを遮断する格好となったこと、また最上にとっては上杉に南と西から挟まれる格好となったことをそれぞれ意味していた。
また、小早川隆景没後に所謂「五大老」の一角を任されたりと、上杉景勝が豊臣政権において様々に厚遇を受ける一方、最上義光は秀次事件に連座して娘や妻までも失い、自らも一時は秀次への関与を厳しく疑われる立場に立たされるなど、政権下における両者の明暗はくっきりと分かれていく一方であり、こうした数々の要因は両者間にさらなる緊張を生じさせることにも繋がったのである。
会津征伐
※詳細はこちらの記事も参照
慶長5年(1600年)6月、秀吉薨去後の豊臣政権の有力者であった徳川家康が、上杉の「不審な動き」を理由として、諸大名を糾合した連合軍で上杉景勝の討伐に打って出た。この不審な動きを家康に報せていたのは、最上義光を始めとする上杉と勢力圏を接する諸大名たちであり、義光ら奥羽の諸将は会津征伐に際しても家康率いる連合軍に味方し、上杉の重要拠点の一つである米沢城攻略に向けた準備を着々進めていた。
ところが7月も下旬に差し掛かり、上方にて家康と対立関係にあった奉行衆や大老らが挙兵に及ぶと、会津征伐も直前で取り止めとされ、義光には伊達政宗や結城秀康らと共に、景勝の動向を監視しその動きを抑えるよう命令が下される。
上杉討伐に参加していた諸将(東軍)が相次いで上方へ取って返したのに伴い、最上領に集結していた奥羽の諸将も相次いで自領へと引き上げ、伊達政宗に至っては先んじて上杉から奪っていた白石城の返還を条件に、上杉と和睦を締結する有様であった。
これら諸将の帰還に際し、義光は「家康の意向に従うこと」「事があらば助け合うこと」よう諸将と起請文を交わしているが、9月に入ると江戸に留まっていた家康、そして宇都宮に在陣していた徳川秀忠が相次いで上方へと進発(この時、義光の次男である家親も秀忠軍に従軍している)。義光と並ぶ反上杉勢力の一つであった越後の堀秀治も、この頃既に上杉方の策略による遺民一揆の収拾に忙殺されており、これにより明確に景勝に対立する周辺勢力は義光のみとなってしまった。
この状況は、景勝にとっては家康不在の江戸を接収できるかもしれない、正しく格好の機会でもあったが、義光が秋田実季と組んで上杉領の挟撃を図ろうとするなど、なおも対立姿勢を崩さぬままであったことから、義光を屈服させ後顧の憂いを絶つべく景勝は機先を制し、最上領への侵攻を決断したのである。
合戦の推移
上杉軍の挟撃
直江兼続率いる上杉軍が、米沢・庄内の両方面から最上領への進撃を開始したのは、慶長5年9月8日のことであった。その総勢2万から2万4万あまりと伝わる一方、これと相対する最上軍はこの時実働可能な兵力はわずかに7,000余り、しかも各地に兵力を分散していたために本拠の山形城には4,000ほどしか残されていない状況であり、形勢は明らかに最上にとって不利でしかなかった。
狐越街道より攻め上ってきた上杉軍の主力は、9月12日には最上領侵攻の手始めとして、その南方の拠点の一つである畑谷城の包囲を開始した。城将である江口光清らは500の守備兵とともに、義光からの撤退命令を退け徹底抗戦に臨むが、衆寡敵せず畑谷城はその日のうちに陥落。それでも上杉軍に1,000近い損害を与えての、壮絶な戦ぶりであったと伝わっている。しかしその後、米沢方面からの軍勢は後述の通り、最上軍の頑強な抵抗の前に思わぬ苦戦を強いられることとなる。
一方の庄内方面においては、最上からの支援を受けた一揆勢が朝日山城方面で蜂起したものの、こちらも東禅寺城を発した志駄義秀率いる上杉軍によって一蹴され、さらに最上川沿いに最上領へと進撃。六十里越経由で侵攻した下秀久の軍勢もこれに続き、最上領への進撃開始から10日ほどで寒河江城や山野辺城(山辺城)など、最上領西部の諸城が相次いで陥落するに至っている。
これら上杉軍の動きに留まらず、北方の湯沢においても義光と敵対関係にあった小野寺義道が、楯岡満茂の守る湯沢城を包囲に及んでいるが、こちらは守備兵の善戦により早々の陥落を免れている。
長谷堂城の戦い
畑谷城を陥落させた上杉軍主力の次なる目標は、その南東に位置する長谷堂城であった。最上にとってここは山形城を死守する上での最重要拠点であり、ここを落とされれば逆に上杉にとって山形城攻めの足場ともなり得ることを意味していた。
軍を率いる直江兼続は、1万8千の兵をもって長谷堂城の攻略に着手、これに抵抗する守備兵は志村光安以下わずかに1,000程度と、兵数だけで言えば畑谷城と同様に勝敗は既に決したも同然であった。
が、9月15日より始まった長谷堂城攻めは、事前の予想に反し難渋を強いられることとなる。深田となっている城の周囲は兵馬の移動が容易ではなく、力攻めで短期攻略を狙った上杉軍に対し、最上軍はこの地の利を活かして巧みな防戦を展開。のみならず16日に志村らが仕掛けた夜襲は、上杉方の春日元忠勢を混乱に陥れ、さらには兼続のいる本陣にまで迫り250人ほどの首を挙げるという、目覚ましい戦果を上げるに至った。この時の夜襲では、義光によって長谷堂城に派遣されていた副将の鮭延秀綱の奮戦も目を瞠るものがあり、後に敵である兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と讃えられている。
その後の城攻めも、そして苅田狼藉による挑発も芳しくない結果に終わる中、情勢は徐々にではあるが上杉軍に不利なものへと転じていくこととなる。
この頃、兼続率いる軍勢とは別に篠井康信ら率いる4,000の上杉軍が、長谷堂城の南方にあった上山城の攻略に当たっていた。最上にとって羽州街道の最前線と言えるこの城には、里見民部以下500の兵が詰めているのみであったが、こちらでは城を打って出た里見らに上杉軍が反撃に出たところ、別働隊の待ち伏せに遭って400人もの損害を出すという事態に見舞われており、長谷堂城の軍勢との早急な合流が果たせない状況にあった。
そして上杉軍にとって、さらに頭の痛い事態が発生することとなる。この頃、伊達政宗とその軍勢は北目城にて上杉・最上の戦いの推移を窺っていたが、そこに嫡男の義康を使者に立てた、義光からの援軍の依頼が届いたのは、長谷堂城攻めが始まった15日のことであった。これを受けた政宗は、あくまでも静観の上両家を戦わせて疲弊に追い込むべきとの片倉景綱からの進言を退け、「家康のため、そして山形にある母上のために見捨てる訳にはいかない」として、義光救援のため叔父の留守政景率いる3,000の兵を山形へと派遣した。
この伊達からの援軍が山形へ到着し、上杉軍に対峙したのは9月下旬に入ってからのことであるが、この頃に至ってもなお上杉軍による長谷堂・上山の両城の攻略は難航したままであり、伊達からの援軍と義光自らの出陣は、そうした戦況を完全に膠着状態へともつれ込ませる格好となったのである。
上杉軍撤退
上杉軍にとって、それらを上回るほどに致命的な知らせがもたらされたのは、長谷堂城の再度の総攻撃に失敗し、上泉泰綱(主水、上泉信綱の孫とも)らが討ち死にした9月29日のことである。
それは上方にて挙兵した石田三成を始めとする西軍が、美濃関ヶ原にて東軍に大敗を喫したというものであった。その関ヶ原の戦いが行われたのは、奇しくも兼続ら上杉軍が長谷堂城攻めに着手したのと同じ、9月15日のことである。
この敗報に2週間遅れで接することとなった兼続は、不利を悟って一度は自害に及ぼうと考えたものの前田利益(慶次郎)の諫言で思い留まり、長谷堂城攻略を断念して全軍撤退を決断したとされる。対する義光の元にも、翌日には関ヶ原の戦いの結果が届いたと見られ、10月1日より始まった上杉軍の撤退に際しては義光自ら陣頭に立ち、伊達からの援軍とともにこれを激しく追撃。
富神山付近で遭遇する形となった両軍ともに多数の死傷者(※)が発生し、義光も兜に銃弾を受けるなど壮絶な展開となったこの撤退戦は、自ら殿を務めた兼続率いる鉄砲隊、それに前田利益や水原親憲らの善戦もあって上杉軍が最上・伊達軍の追撃を振り切り、どうにか米沢まで撤退することに成功した。この兼続の戦ぶりには追撃に及んだ義光や、徳川家康からも後に惜しみない賞賛を与えられることとなった。
(※ この撤退戦に限らず、一連の戦における死傷者については現存する史料や文書を見る限りでも、上杉・最上の双方ともに明らかな記述の相違が見られ、今もって確定には至っていないことに留意すべき必要がある)
庄内失陥と松川の戦い
かくして、米沢方面からの軍勢は撤退戦を切り抜けるに至ったものの、最上軍はそれ以前より既に各地の戦線で反攻に転じており、10月1日の時点で寒河江などの回復に成功。庄内方面から侵攻していた軍勢も速やかな撤退に及んでいるが、下秀久のように情報伝達の遅れで敵地に取り残された者もおり、谷地城にて逆包囲を受けた末に志村光安からの説得を受ける形で降伏した秀久は、そのまま最上氏に属する格好となった。
こうして最上領内から上杉軍が相次いで撤退・駆逐されていくのとは逆に、最上軍はその余勢を駆って最上義康率いる軍勢が庄内地方へと逆侵攻し、翌慶長6年(1601年)3月までに庄内地方全域を上杉氏から奪還せしめた。十五里ヶ原の戦いにて、庄内の支配権を失ってから実に15年近くもの月日を経て、義光は雪辱を晴らすこととなったのである。
一方、これより以前の9月下旬に、前出の秋田実季が義光に対し庄内地方への攻撃を通知している。これは義光との連携というより、徳川家康からの直接の指示を受けてのものであったが、これに対してあくまでも自らが奥羽諸将に下知を下す立場にあると認識していた義光は、仙北にて侵攻を続けていた小野寺氏への攻撃を求めた。
結局、実季は庄内ではなく仙北へと矛先を向け、由利衆とともに小野寺氏を攻めて横手城を陥落させることとなるのだが、ここでも仙北攻めに切り替えた理由はあくまで実季独自の判断(この時点で義光からの返書は到着していなかった)によるものであり、義光にしてみれば自らの下知に従わない実季の「軍令違反」、あくまで家康の指揮下にあると考える実季にとっては義光の「讒言」が、戦後も両者間にしこりを残すことに繋がった。
こうして義光が勢力を回復する中で、同様に奥州仕置の際に失った旧領回復を期して動いていたのが、他でもない伊達政宗である。家康からは「みだりに軍勢を動かすべからず」との下知が下っていたものの、政宗はそれ以上の下知を待たずして慶長5年10月より、上杉領となっていた伊達・信夫の両郡への侵攻に踏み切った。
しかし政宗が侵攻に及んだ福島方面では、本庄繁長を始めとする上杉方が激しい抵抗を展開しており、翌慶長6年春まで続いたとされるこの侵攻戦は結局、繁長の籠もる福島城を度々脅かしながらも、柳川城の須田長義らの援護もあって政宗自身も危地に陥るなど、遂に城を落とすには至らなかった。
加えて、庄内地方の領有を家康から認められた義光に対し、政宗は南部領で発生した和賀忠親による一揆煽動に関与したことを問題視され、事前に家康から約束されていた旧領の回復(百万石の御墨付)までも反故にされるなど、「松川の戦い」とも呼ばれる一連の上杉領侵攻は政宗にとって、殆ど得るところのないままに終わったのである。
戦後
義光は関ヶ原の戦い後の論功行賞に際して、家康より前述の通り庄内地方の領有を認められただけでなく、雄勝・平鹿両郡と引き換えに佐竹氏(それまでの常陸から秋田・仙北に国替えとされていた)が領していた由利郡を得ることとなり、出羽山形藩を57万石の大藩へと押し上げるに至った。その後も家康の参内の際に供奉者に選ばれたりと、義光は家康や江戸幕府からの厚遇に浴することとなる。
対して、上杉氏は本庄繁長らの進言で景勝が家康との講和を決し、折衝の末に辛うじて御家存続を認められたものの、それまでの会津120万石から米沢30万石へと、大幅な減移封を余儀なくされるに至った。
しかし歴史というものは皮肉なもので、最上氏の最盛期を現出した義光が慶長19年(1614年)に没すると、山形藩では義光の孫に当たる義俊の治世下において、深刻な御家騒動が勃発。この事態を重く見た江戸幕府の判断により山形藩は改易に処され、最上氏も交代寄合へと没落してしまう。慶長出羽合戦より20年余りを経た、元和8年(1622年)のことである。
そしてこの改易に際し、幕府の命により長谷堂城の受け取り役を務めたのが、他ならぬ上杉景勝その人だったのである。直江兼続を始め、最上領への侵攻において主導的な役割を果たした家臣らの多くが世を去って久しい中、長谷堂城を収公するに当たって老境の景勝がどのような思いを抱いたか、今となっては知る由もない。