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南部信直

なんぶのぶなお

戦国時代後期から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。南部氏第26代当主。盛岡藩祖とされる。
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プロフィール

生没年:1546年~1599年
諱:信直
幼名:亀九郎
通称:九郎、田子九郎

南部氏23代当主・南部政康の次男である石川高信の長男。従兄で24代当主だった南部晴政の長女を娶り後継者となるが、晴政と対立。晴政・晴継父子の死後、南部氏を継ぎ26代当主となる。江戸幕府成立後に嫡子・利直が盛岡藩初代藩主になったことから盛岡藩祖と扱われ「南部氏中興の祖」と言われるようになった。

晴政との対立~家督相続

石川高信の長男だったが田子館に入り田子九郎信直と称した。若い頃から良将の片鱗を見せ、南部領内に侵攻した安東愛季の軍と対戦した際には総大将を務め撃退している。
1565年、齢50に至っても男子に恵まれなかった従兄(異説あり)の南部家当主・晴政の長女を娶り養嗣子となる。ところが晴政に実子・晴継が誕生したことで晴政と信直に亀裂が生じのちに「屋裏の変」と言われるお家騒動になっていく。

1570年(1571年説有)、実父の高信が津軽為信に攻められて自害。ただし、この頃は信直と晴政の関係が悪化していたので、信直の実家・石川氏排除で利害が一致した晴政と為信が企てた陰謀という見方もある。

晴政が参詣中の信直を狙い自ら手勢を率いて襲撃したり、信直も自ら晴政と九戸実親(晴政次女の婿)を狙撃して二人を負傷させたり、晴政が信直を匿った重臣の北信愛(次男が晴政五女の婿)を攻めようとしたことなどあり信直は信愛や南長義と連携し、晴政や九戸実親やその兄である政実と対立することになる。1576年に晴政の娘である妻が早世したため、養嗣子の座を辞退する。表面的には晴政に異心なきことを示したものの、晴政に対する不信感と警戒心から三戸城には一切出仕しなくなり田子館に引きこもり、やがて北氏の剣吉城や八戸氏の八戸根城を転々とする。

とは言え晴政が信直討伐に動いた形跡はなく、信直も晴政排除の軍を起こさなかったために、晴政派と信直派の全面衝突は発生しなかった。やがて晴政が亡くなり、後を継いだ晴継も不慮の死を遂げたため、宗家存続での話し合いが再発。
九戸政実は弟の実親を推したが、北信愛が事前に後継候補の一人・八戸政栄に調略を行った結果、信直が当主になる。

津軽為信や九戸政実との抗争

当主になった信直は、自身の地盤固めに腐心するも、反対勢力の筆頭が家中最大勢力の九戸氏であったことなどから捗らなかった。

この隙を突かれ、高水寺斯波氏が侵攻してきたが高田康真(のちの中野康実)の活躍もあり、逆に高水寺斯波氏を攻め滅ぼした。一方、大浦為信には津軽統一を許してしまった。小田原攻めにおける豊臣秀吉と謁見し南部氏惣領の地位を認められた。しかし、その謁見も為信に出し抜かれ大名として正式に認められてしまった(ただし惣無事令違反の咎で領地は半減)ため津軽奪回は不可能になった。

しかし、秀吉から南部氏惣領の地位を認められたことで、政実が憤慨し南部家惣領を自称し、1591年に縁戚の七戸氏らと共に信直ひいては秀吉に対して反乱を起こす。
南部家随一の精兵と言われた九戸勢は強く、南長義の孫・南盛義らを討ち取られるなど信直は苦戦する。秀吉は同時期に起こった葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆、九戸氏の反乱を鎮圧するために豊臣秀次を大将とし徳川家康らを加えた大軍を再度奥州に派遣する。九戸勢も善戦したが力及ばず政実は秀次に降伏するために赴くも捕縛されて処刑される。城内に残った実親たちも浅野長政蒲生氏郷の策もあり降伏を許されず騙し討ちにされ九戸勢は女子供に至るまで皆殺しにされた。
この時、為信が九戸氏と親しかったことから為信も討つように秀次に進言したとされるが却下された。
その後、九戸城を福岡城と改名し三戸から本拠地を福岡に移した。

その後

朝鮮出兵の際は海こそ渡らなかったが九州へと赴いた。
九戸の乱の後、秀吉から失った津軽三郡の代わりに新たに和賀・稗貫郡を与えられた。このため所領が南に伸び、三戸や九戸では北に寄り過ぎて本拠地としては不便になった。さらに今度は伊達政宗とも接したこともあり、南部は津軽と伊達に挟まれる格好になった。このため信直は嫡子・利直に伊達対策として不来方の地に築城を命じた。ちなみに不来方城は信直死後に完成し、利直は福岡から移転して本拠地とした。また利直は不来方を「森が岡」と改名し、子・重直の代にはさらに「盛岡」と改められ今日に至っている。

最後は福岡城で死去。最後は「大事にはいたっていない。海藻が食べたい」と言ったがその直後に死去したという。
関ヶ原の戦いが発生する前年の1599年11月22日の事であった。享年54歳。その四ヶ月前には長宗我部元親が死去している。

南部家は利直が継ぎ、関ヶ原の戦いを経て盛岡藩初代藩主となる。南部藩は江戸時代も領地替えもなく続いたものの、幕末の戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦うも降伏。その後、陸奥国白石13万石に減転封され廃藩置県を迎えた。

信直は為信に非常に強い遺恨を持っていたが、為信も(一説には晴政派だったとも)信直を嫌っており豊臣方もなるべく両者が顔を合わさないように配慮していたという。彼らの対立は互いの子孫の代にもずっと続き家格などでも激しく対立する。江戸時代中期以降には「ひのき騒動」「相馬大作事件」が起こり、戊辰戦争時においても「野辺地戦争」で衝突することになった。

主な親族や家臣

  • 石川高信

実父。津軽を維持できたのは彼のおかげと言われるほど優秀な人物であり高信の兄・南部安信やその息子である晴政を支えた。
しかし、その優秀さから晴政から危険視され最後は津軽為信に攻められ自害。
(これについては異説あり)

  • 石川政信
実弟。石川氏としてはこちらが嫡子で田子を称した信直は庶子だったともされる。高信と同様、為信に攻められ自害したというが異説もあり、果ては実在否定されることすらある始末である。

  • 南部利直
長男。南部家27代当主にして盛岡藩初代藩主。有力家臣を粛清に中央集権化を推し進めた。北直吉を自ら処刑したり柏山明助を毒殺するなどの強引な政治手法などがどこかで見たようなやり方。一方で「わんこそば」が誕生したきっかけとなっている。

  • 北信愛
南部氏一族で祖父は南部氏21代目当主・南部信義だが、実父・北致愛が誕生したのが信義が死没した翌日だったため母方の北氏に追いやられた経緯を持つ。
1600年の奥州合戦では水沢城に突如攻めてきた一揆勢を少数ながら撃退する活躍を見せた。
八戸氏の力を恐れていた信直と利直はけん制役として重用した。享年は91歳と超長寿。ちなみに外甥で養子の北直吉(信景)は信愛死後、利直と不和になり出奔し大坂城に入城して大坂の陣を戦うが捕えられ盛岡まで連行され利直の手で処刑されている。

  • 南長義
石川高信の弟。名は信義とも。晴政・信直の叔父にあたる。北信愛と共に積極的に信直を支持したため、晴政と対立することになった。86歳にして南部晴継死後の相続会議にも参加した。翌年87歳で逝去。

  • 八戸政栄
八戸氏18代当主。根城八戸氏は元々の南部宗家に当たる家柄。ただし政栄は八戸氏庶流の新田(にいだ)行政の息子で八戸勝義の養子として根城八戸氏を継いだ人物である。信直と晴政が険悪な関係になった時に信直を匿ったこともある。一時は当主候補になるも自身が盲目だったことや北信愛の説得で辞退。以降は信直の右腕として働き、嫡子・八戸直栄に信直の長女が嫁いでいる。しかし八戸氏は家柄や実力もあってその後も信直や利直からは警戒もされていた。

  • 中野康実
九戸政実と実親の弟。高水寺斯波氏を滅ぼすのに功があった。しかし九戸の乱の際に兄達と袂を分かち信直に味方。のち中野家は北家や八戸家と同格として重んじられた。

その他、父・高信の弟たちを祖としている石亀氏や毛馬内氏も家臣化した。

関連項目


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