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津軽為信

つがるためのぶ

津軽為信とは陸奥津軽藩初代藩主で当初は南部家に属したが、南部家の相続争いの最中に津軽にて独立。以後は津軽統一に捧げ、関ヶ原でも東軍に属して本土安堵された。(1550年-1607年)
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南部家からの独立編集

1550年、久慈守信(大浦守信)の嫡男として誕生した。幼名:


叔父である大浦為則が病弱の身であった事により、1566年(1567年とも)に為則の娘である戌姫を娶って大浦為信と名乗って大浦城主となる。


やがて主家の南部家が家督争い(南部晴政の実子・晴継石川高信の長男で晴政の従兄弟でもある信直)が起こり、南部領内が荒れ果ててしまった事によって民の不満が高まっていった。


為信は遂に1571年に謀反を決行し、石川城を奇襲して石川高信を自害に追いやると大浦城にて大名として独立した。


ここから約17年以上にも及ぶ津軽統一の道が始まった・・・。


豪族達の争いと六羽川合戦編集

為信は家督争いの為に他国に出陣出来ない南部家の隙を突いて近辺の豪族達を撃破し、着々と津軽領の統一を進めていく。


1575年には大光寺城を守る滝本重行に挑むが1度は敗北を喫す。しかし翌年に再び交戦して大光寺城を陥落させる事に成功。2年後の1578年には計略を用いて浪岡御所の浪岡顕村を破ったが、この結果浪岡氏を支援する安東家と関係が悪化した。


安東愛季は南部家と結んで比山六郎・七郎兄弟を総大将として1579年に六羽川へ出陣し、為信もこれに対抗すべく出陣した。(六羽川合戦)


当初は安東・南部軍が優勢ではあったが、田中吉祥が為信の身代わりに突撃した事で相手が為信を討ったと油断した事で津軽軍が反撃を開始した。これにより総大将・比山六郎が討死した事で連合軍は総崩れとなり、津軽軍の勝利に終わった。


正式領主任命編集

1582年に南部家当主・南部晴政が65歳で死没し、相次いで晴継が12歳の若さで早世すると南部家に後継者騒動が勃発。騒動の末に南部信直が26代目当主として相続する事となったが、同じ後継者であった九戸実親の兄・九戸政実がこれに不満を持ってしまう。


当主・信直と政実の対立を口実に為信は南部軍が大軍を起こして攻めて来る事は無いだろうと判断し、そのまま破竹の勢いで津軽領の統一を完成させようとしていた。


1585年3月には油川城を攻略し外ヶ浜一帯を制圧し、田舎館城を陥落。また同年には正室・戌姫の実弟2人を跡目争いから避けるべく暗殺した。6月には盟友・千徳政氏と共同出撃し、政氏の同族である千徳政武を倒している。


同盟していた最上義光の情報工作により、豊臣秀吉に接近して本領安堵を図るべく為信は1585-1588年の3年に何度も上洛を図ろうとするが、いずれも安東(秋田)・南部家の妨害により失敗に終わっているが、同時に1588年には朝日一族を殲滅して津軽一帯の統一と糠部郡の一部を手中に収めた。


1589年には秋田実季(安東愛季の嫡男)と和睦し、家臣・八木橋備中守里負を上洛させて石田三成を通じて秀吉に名馬と鷹を献上して津軽三郡と合浦一円の所領を安堵される。その一方で南部信直は秀吉に対して為信を逆賊として訴え、一度は討伐の対象となってしまう。


しかし早くから豊臣家に恭順の意を示すべく工作を行った事により、信直が小田原へ到着する1ヶ月前に秀吉に謁見した事で独立した大名として認知される事に成功した。以後は石田三成と親密な関係となり、後年には三成の子・重家らを保護している。


津軽姓に改姓・関ヶ原と晩年編集

祖父の大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承に因んで為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に近衛前久を訪れて「私は前久公の祖父である尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤である」と主張した。


これにより前久は為信を猶子し、為信は本姓を藤原として近衛家の牡丹に因む杏葉牡丹の家紋使用を許されて名前も大浦から津軽に改姓した。


その後も九戸政実の乱や文禄・慶長の役や伏見城普請などに功績を挙げ、1594年には本拠地を堀越城へ移動し、更に1597年にはかつての盟友・千徳政氏の子である千徳政康を倒して千徳氏を滅亡に追いやっている。


1600年に関ヶ原の戦いが起こると為信は三男・信枚と共に東軍に属し、長男・信建を西軍に属させて生き残り策を採った。1603年には堀越城に代わる新城を建てるべく岩木川と土淵川に挟まれた高岡に新しい城を築城した。(後の弘前城)


1607年、病に倒れた信建の見舞いと自身の診察のために京都へ上洛するが、その到着前の10月に信建が死去。体調不良だった為信もまた同年12月に57歳で死去した。


為信の死によって三男・信枚と長男・信建の子である熊千代による後継者争い(津軽騒動)が発生したが、幕府の裁定によって信枚が弘前2代目藩主を継承した。



余談編集

  • 伝説では家臣の妻・藤代御前との逸話がある。

家臣・藤代某の妻、藤代御前を側室にしようと某に難癖を付けて処刑。夫の死後、女城主となった藤代御前を妻にしようと強く迫るが拒否。怒り狂った為信は藤代御前の城を攻撃し、奮戦する藤代御前を討伐。死後祟られぬよう徹底的に屍をミンチにした。

しかし藤代御前の幻を見て寝込む為信。死後藤代御前を抑え込むため子供に彼女の墓の上に葬ってくれと頼み亡くなる。


創作物における津軽為信編集

戦国大戦編集

Ver2.0の他家で参戦。武力6統率8の騎馬隊で防柵・魅力を持っている。


計略は「佞武多(ねぶた)大進軍」で味方の武力を大幅に上げ、自分の移動速度が下がる陣形。ただし効果が終わると自分を含めた陣形にいる味方が全て撤退するというハイリスクハイリターンな計略の持ち主。


中国・三国時代蜀漢の武将・関羽に憧れて髭を伸ばしていたという話から関羽に似た長い髭の外見となっている。

信長の野望編集


覇王伝から初登場。ステータスが高い反面、義理のステータスがかなり低めである事に注意。


現在のシリーズでは南部家からの独立を再現したイベントが実装されている。


戦国無双編集

武器:刀剣 声:山田真一(2) 草尾毅(3) 金本涼輔(4)


「天運時至る! 関雲長にあやかる俺の武、見よや!」(Empiresでの特殊台詞)


戦国無双2Empiresの地方シナリオで初登場したが、この時は津軽三家老や沼田祐光などが登場しなかった。


4Empiresでは固有武将の1人として登場した。


戦極姫編集

南部家の武将として登場。三国志の関羽に憧れ髭に興味があるようだが女性武将の為、髭とは無縁の関係である。

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