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最上義守

もがみよしもり

最上義守とは、東北地方の戦国武将。出羽の戦国大名・最上氏第10代目当主で、父の代より従属を余儀なくされていた伊達氏より独立を果たすも、勢力拡大の頓挫や息子・義光との対立など少なからぬ禍根を残した。(1521年-1590年)
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生涯編集

2歳の当主編集

義守の誕生から遡る事1年、永正17年(1520年)に最上氏第9代目当主の最上義定が、嗣子の無いまま28歳で死去するという不運に見舞われた。するとこれを好機と見た義定の義兄・伊達稙宗は最上氏を傀儡化しようと企て、周辺の国人を取り込み後継指名へ介入しようとした。

しかし最上家臣団や国人達はこれに反抗し、後継指名は難航。已む無く稙宗は妥協策に転じ、義定の姪孫に当たる長松丸(義定の弟・中野義建の孫)を最上氏10代目当主に指名。これにより、長松丸はわずか2歳にして家督を継ぐ事となった。


それから13年の時が流れ、元服した長松丸改め義守は、天童氏によって焼き討ちに遭い(先の稙宗の介入に際して伊達氏に味方した事への報復であった)荒廃した立石寺を再建させ、天文12年(1543年)にも比叡山延暦寺より分燈を得るなど、最上領内の復興に尽力した。


天文の乱~勢力拡大の頓挫編集

依然として伊達氏への服属状態が続く中、思わぬ形で最上氏の独立の機会が巡ってきた。天文11年(1542年)に発生した天文の乱である。伊達稙宗と、その息子の晴宗の対立に端を発したこの内紛が、奥羽越の諸勢力を巻き込んで拡大の一途を辿る中、義守は当初稙宗方に従って長谷堂城を奪還し、さらに上長井・下長井の全域を制圧。ここに最上氏は伊達氏からの独立を果たす格好となったのである。

この争乱はその後、同じく稙宗方に属していた蘆名氏が晴宗方に寝返ったのを皮切りに、義守他稙宗方の諸勢力も続々と晴宗方につく事となり、形勢は晴宗方優位に転ずる事となった。最終的には室町幕府による仲裁を受け、稙宗の隠居と晴宗の家督相続という条件の元、天文の乱は終息を見た。

この争乱の最中である天文15年(1546年)には長男・白寿が、その2年後には娘・が誕生している。


伊達からの独立を果たした義守は、その後も勢力拡大に向けて邁進を続け、一方で寒河江氏や土佐林氏など周辺勢力との同盟も模索するが、これが不首尾に終わると永禄3年(1560年)、寒河江氏の本拠である寒河江城の攻略に乗り出した。嫡男・義光の初陣でもあったこの寒河江城攻めは、しかし寒河江氏の頑強な抵抗により大敗を喫し、10年以上に亘り推し進められてきた領土拡張策も、ここに頓挫を迎える事となった。

この失敗を受け、義守は武力による勢力拡大から、外交工作による周辺勢力との関係・影響力の強化へと方針を転換する事となる。既に義光の元服に当たって室町幕府将軍・足利義輝より偏諱を受けていた義守は、永禄6年(1563年)に義光と共に上洛。義輝への謁見に際しては馬や太刀を献上し、義輝からは「山形御所」の御所号を賜るなど一定の成果を上げている。

また同時期には義光の正室として同族の大崎義直の娘を輿入れさせ、翌年には伊達晴宗の嫡男・輝宗に娘・義を嫁がせるなど、婚姻関係を通じての周辺勢力との関係強化にも努めた。しかし義と輝宗の婚姻は、その後の最上・伊達両者間の関係に多大な影響を及ぼす事となるのである。


天正最上の乱編集

こうして最上氏の勢力強化に努めていた義守であったが、後継者と定めていた嫡男・義光とは次第に軋轢を生じさせる事となる。両者間の対立はやがて武力衝突にも発展、義守の側には伊達輝宗が付くなど周辺勢力も巻き込む格好となったが、この時は重臣・氏家定直の説得もあって和解し、家督を義光に譲り隠居する事で落着を見た(隠居の経緯について言及した文書の発給時期から、これ以前永禄年間には既に隠居の身にあったとの見解も示されている)。

しかし当主となった義光の、周辺の国人らに対する強硬な姿勢への反発から、これら国人・豪族らは隠居の身にあった義守を擁立し、義光の追い落としを画策。ここに父子間の抗争は再燃する事となった。当初は伊達に加え、天童・白鳥・延沢などといった諸国人を味方に付けた義守方が優位にあったが、義光はこれら諸国人の各個撃破に努め、伊達とも和議を成立させる事で、その優位を徐々に崩していった。

義守はその後もなお対立姿勢を崩さずにいたが、結局白鳥長久の仲介によって義光と和睦を結ぶに至り、最上氏の菩提寺である龍門寺にて再び隠居の身となった。時に天正2年(1574年)11月の事である。


※この父子間の軋轢については、義守が次男・義時を後継者にしようと画策した事が長らく原因とされてきたが、その義時の存在について言及された記録は一番古いものでも18世紀末に成立したものであり、同時代の一級史料に義時の名は見当たらない事から、今日では義時の存在自体が架空であると見做されている。


晩年編集

一連の抗争から数年を経て、義守は病に倒れ危篤に陥った。死を覚悟した義守は義光、それに娘婿の輝宗と義の夫妻を枕元に呼び、以下のような遺命を述べ置いたとされる。


儂が亡くなったら、最上と伊達が合戦を行う事だけが心残りなのだ。両家が争ったら、他国の大名が得するだけで、両家とも佐竹や上杉等に討たれてしまう。両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が連合して攻めて来ようが、奥州は安泰となる。」(意訳)


こうして緊張関係にあった両家の間に不可侵協定を結ばせ、義守は生涯最後の大仕事を果たした・・・かに見えた。

ところが後日、義守は幸か不幸か危篤状態から快復してしまい、この事が最上・伊達間の緊張状態を再び強めるという、義守の意に反する結果を招いてしまった。


とはいえ、義光との仲はこの頃までには修復されていたようで、義守が天正18年5月18日(1590年6月19日)に70歳で死去した際、小田原参陣を目前に控えていた義光はこれを遅らせてまでも、父の葬儀を盛大に執り行っている(小田原への遅参は折衝役であった徳川家康のとりなしにより、事なきを得ている)。


創作物における最上義守編集


信長の野望

初登場時は標準型のステータスだったが、シリーズを追う事に徐々に能力がダウン。嵐世紀からは最早大名としては使えないレベルにダウンしてしまった。


戦国無双

武器:槍(2) 刀剣(3以降) 声:高塚正也(2) 草尾毅(3Empires) 藤本たかひろ(3Empiresでの特殊台詞時の声と4以降)


「息子にも娘にも困ったモンじゃ…ああ、戦だったな」(3Empiresでの特殊台詞)


2Empiresより登場しており、3Empiresでは遭遇すると上記の特殊台詞を喋る。4Empiresでは固有のデザインで登場したが、その代わり上記の特殊台詞は無くなった。


関連タグ編集

最上義光 義姫

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