概要
大和朝廷が蝦夷(えみし)を征伐するため724年に築いた古代城柵型の城。遺構は現在の宮城県多賀城市市川に存在する。以降計4回の改修と焼失を繰り返しながら10世紀頃まで断続的に使用された。
多賀城は鎮守府兼陸奥国府として大和朝廷の北の一大拠点とした栄えた。
さらに河川交通と陸上交通の交わる場所としても重要だったとされる。
発掘の結果、多賀城は周囲に築地塀を巡らした行政官庁であり、南側には南北500m、東西1kmを越える都市の遺構も見つかった。
869年の貞観地震以降は修復も疎かとなり、荒廃していった。
遺跡発掘の状況から11世紀には用いられなくなったようだ
しかしそれ以後も「多賀国府」という官庁名は資料にたびたび見られる。
これに該当すると考えられる中世の遺跡は多賀城市西部から仙台市岩切地区に広がる。
この地を支配していたのは陸奥国留守所長官に任ぜられた留守氏という武士であったらしい。ただし既に陸奥国は古くは奥州藤原氏、後には北条氏をはじめとした武士たちが群雄割拠しており、北畠顕家が鎮守府将軍となった一時期を除いてほとんど国府としては機能していなかった。留守氏は周辺地域を支配する有力武士団と見なした方が正しい。なお留守氏の統治は伊達政宗が代わってこの地を支配する近世まで続く事になる。