大武丸とは
ここでは2.について述べる。
概要
坂上田村麻呂伝説に登場する陸奥国岩手山の山頂にある鬼ヶ城に棲んでいたと伝わる鬼。
大武丸を討伐した田村丸が岩鷲大夫権現として岩手山に現れたとされ、立烏帽子神女が現れたとされる乳頭山(烏帽子岳)や松林姫が現れたとされる姫神山など、岩手山を中心に周辺にも伝説が残る。
大武丸は岩手山の他に大嶽丸、大竹丸、大武丸、大猛丸、大滝丸、大多鬼丸などの名でも東北各地に伝説が残る。
平泉にある達谷窟の悪路王など旧仙台藩や北上川流域を中心に語られた奥浄瑠璃『田村三代記』の影響から発生した伝説ではなく、南部藩を中心に江戸時代に語られた古浄瑠璃の影響から発生した伝説から発生した比較的新しい物語と考えられている。
地域によっては大武丸は悪路王の弟ともされ、子供に人首丸がいたという物語まで創出された。配下には早虎、金丈、猪熊の三鬼を従えていたという。
日本三大妖怪に数えられる鈴鹿山の大嶽丸と同一視されることもあるが、岩手山の大武丸は東北の本地譚が伝説化したものであり、鈴鹿山の大嶽丸は鈴鹿峠の本地譚が伝説化したもののため、両者が伝説化したルーツは異なる。
ただし『鈴鹿の草子(田村の草子)』では、鈴鹿山の大嶽丸が霧山へと根城を移したと語り、これが東北へと伝わっていることから、鈴鹿峠を往来した民衆によって鈴鹿山の伝承が持ち込まれたこともあり、無関係とまでは言えないようである。
アテルイとの関係
賛否両論あるが、民俗学の上では坂上田村麻呂伝説に現れる大武丸をアテルイだとする説もある。
民俗学者の伊能嘉矩によれば、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』が悪路王に関する最古の記述とされる。
文治5年(1189年)9月28日の条に平泉で藤原泰衡を討伐した源頼朝が鎌倉へと帰る途中、達谷窟を通ったときに「田村麻呂や利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」と案内人から教わったという。
ただし『吾妻鏡』は編年体で書かれた将軍年代記であることから、この記述にも政治的意図があった可能性も否定できない。
さらに、各地の伝承に見える大嶽丸・大竹丸・大武丸・大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたと結論している。
アテルイと大武丸は、言葉を借りれば「史実と、その史実と同時期を対象にした伝説」という関係である。歴史学の上では史実の人物としてのアテルイと、伝説の人物としての大武丸は別けて考えなければならない。