読みは「ひとかべまる」の他に「ひとこうべまる」などがある。
伝説では延暦20年(794年)、悪路王の弟である大武丸を坂上田村丸が討伐したが、大武丸の子である人首丸は大森山まで逃れた。
人首丸は大森山に籠って抵抗を続けるも、大同元年(806年)に田原兼光に討伐され、遺体は大森山に祀られたという。
アテルイが悪路王と同一視され、悪路王と大武丸も同一視されたことから、大武丸の子である人首丸をアテルイの子や甥っ子とする説もあるが、伝説であって史実ではない。
そもそもアテルイに子息がいたことを証明する文献などはひとつもなく、また坂上田村麻呂伝説自体が鎌倉時代から室町時代、江戸時代に創出された地方伝説にすぎず、史実からかけ離れていることから、人首丸をアテルイの子とするのは歴史的事実ではないのが現状である。史実と伝説の混同はほどほどに。