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坂上田村麻呂

さかのうえのたむらまろ

平安時代初期の武官、貴族。平安京遷都と蝦夷討伏という軍事と造作の時代を生きた伝説の武人であり、平安京の守護神として崇敬される。伝承では妖怪退治のオーソリティーとしても知られ、悪鬼悪龍の討伐伝説が日本一多い英雄でもある。
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生涯

坂上田村麻呂は758年(天平2年)に坂上苅田麻呂の次男または三男として生まれる。幼名は松尾丸とも。
780年(宝亀11年)に近衛将監に就任すると、781年(天応元年)4月に桓武天皇が即位した。田村麻呂は桓武の元で出世していく。

782年(延暦元年)、桓武の皇位に反逆した氷上川継事件が勃発した。父の苅田麻呂も事件に連座するが、即時に復権していることから実際は事件に関わっていなかったとされる。そのため田村麻呂の出生への影響はなかったと思われる。

784年(延暦3年)11月に京が平城京から長岡京に遷都される。
その翌年、苅田麻呂が天皇に上奏して、東漢氏一族は姓が「忌寸」から「宿禰」に。東漢氏の嫡流である坂上氏は「大宿禰」としている。その年の9月には藤原種継暗殺事件が起こる。種継は長岡京建設の中心人物であった。

792年(延暦11年)、田村麻呂は征東将軍大伴弟麻呂を補佐する征東副使の一人に任じられると、翌793年(延暦12年)に田村麻呂は暇乞いをし、陸奥国へと行動している。この行動の詳細は不明である。
794年(延暦13年)に弟麻呂に節刀が下賜され、長岡京より陸奥へと軍を進めた。田村麻呂はこの戦役では副使でありながら中心的な役割を果たしている。
同年11月22日に長岡京から新たな京に遷都され、その6日後の28日に弟麻呂より新たな京へ戦勝報告がなされる。戦勝を受けた直後の翌月8日に新たな京は平安京と名付けられた。
795年(延暦14年)正月に長岡京より出征した征夷軍が平安京に凱旋帰京する。

796年(延暦15年)に田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任したことで陸奥の戦役を指揮する官職を全て兼ね、797年(延暦16年)には桓武天皇より征夷大将軍に任命された。
この頃に京都清水寺を創建しており、清水寺の本堂には長岡京内裏正殿(紫宸殿)、もしくは長岡京内の田村麻呂の屋敷が移築されたものという。

801年(延暦20年)2月に田村麻呂に節刀が下賜され陸奥へ出征すると、9月には蝦夷(えみし)の討伏を報じて10月に帰京した。帰京に伴い節刀を天皇に返還している。
802年(延暦21年)には胆沢城造営のため再び陸奥へ戻ると、阿弖流為アテルイ)や母礼(モレ)ら500余人の降伏を容れた。田村麻呂は阿弖流為らの助命を嘆願したが、京の貴族に受け入れられず、阿弖流為らは河内国で処刑された。

804年(延暦23年)に再び征夷大将軍に任命されるが、「徳政相論」が起こり、藤原緒嗣が軍事と造作が民の負担となってると論じ、桓武天皇がこれを認めたため三度目の陸奥遠征は中止となった。
しかし、本来は臨時職である征夷大将軍の称号を田村麻呂は生涯に渡り身に帯び続けた。

数多の戦功により田村麻呂は805年(延暦24年)には参議に列し、806年(大同元年)に中納言、807年(大同2年)に右近衛大将と続けて昇進する。
810年(大同5年(弘仁に改元))に発生した薬子の変では嵯峨天皇の側に付き、変を鎮める中心人物として大納言に昇進して活躍したという。この時に鎮護国家と田村麻呂の勝利を空海が祈祷している。

811年(弘仁2年5月23日)に粟田口の別荘で病死した。54歳であった。嵯峨天皇は田村麻呂の死を悼んで一日政務を取らず、田村麻呂を讃える漢詩を作った。
同日、葬儀が営まれ山城国宇治群来栖村に葬られた。その際に勅があり、死後も平安京の守護神として甲冑、兵仗、、糠、と共に平安京の東へ向かって立ったまま柩に納められた。
また、嵯峨天皇は田村麻呂の遺品の刀剣から一振りを選び坂上宝剣とし、皇室を守護する御剣として御府に納め、この宝剣は歴代天皇に相伝されていく。

死後と神格化

現在、坂上田村麻呂の墓とされるのは京都山科区の西野山古墓である。
西野山古墓付近から出土した金装大刀や金銀平脱双鳳文鏡などの一級品の副葬品から、埋葬当時は最上級の扱いで葬られた貴族であったことが伺え、その出土品は一括して国宝に指定されている。
歴代将軍が平安京より出征する際には、田村麻呂の墓で戦勝を祈願するのが慣例であったという。

田村麻呂が亡くなった翌年には、鈴鹿の地に坂上田村麻呂公を主祭神とする田村神社が創建されている。
鈴鹿峠にも田村明神として祀られ、すぐ近くには鈴鹿御前を祀る片山神社もあり、鈴鹿峠を守る比翼連理の夫婦神として往来する旅人に崇められた。

兵庫県の松尾神社は浄野流坂上氏の浦部太郎坂上季猛(卜部季武)が、祖先である坂上田村麻呂公の御持弓を御神体として祀り創建したという。苅田麻呂が山城国松尾大社に祈願して得た子が田村麻呂であり、幼名を松尾丸と名付けたため、創建時は幼名から将軍宮松尾丸社としていた。
また、新将軍宣下の度に将軍守護弓として「著公弓」(ちゃっこうきゅう)を供奉し、その度に大樹家(将軍家)は約250両を松尾丸社に賜っていた。
著公弓は河内源氏源頼信源頼義源義家鎌倉幕府源頼朝源頼家源実朝の三代、室町幕府足利尊氏から足利義昭までの十五代などに献上している。

創建に関わり、大本願とされる京都清水寺の開山堂(田村堂)では、坂上田村麻呂夫妻の木像が安置されている。

人物

身の丈5尺8寸、胸の厚さ1尺2寸の堂々とした姿であったという。
また、眼は鷹の蒼い眸に似て鬢は黄金の糸を繋いだ様に光っていたという。この事から創作では金髪碧眼キャラで描かれる事もある。

平安時代を通じて優れた武人として厚く尊敬されたため、後世の武将に様々な影響を与えた。
源頼朝は平泉征伐を田村麻呂に準え、徳川家康妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリを愛刀とした。
学問の菅原道真、武芸の坂上田村麻呂とされ、文武のシンボル的存在として一般にも名を知られる。

軍記物をはじめ、由来を田村麻呂にあやかった記述が多く見られる。
『義経記』では源義経が学んだという兵法書は、かつて坂上田村麻呂も読み功績を残したという。
『太平記』では新田義貞の振るう鬼切安綱は、坂上田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせに使用したとある。

系譜

坂上氏は渡来人である阿知使主の子孫を自称した東漢氏の嫡流とされる。
阿知使主は前漢高祖皇帝劉邦後漢光武帝、後漢霊帝の流れを組む末裔であるという。東漢氏は技術を武器として、奈良時代から平安中期にかけて発展していく。
田村麻呂の活躍もあって坂上氏は清水寺別当、鎮守府将軍、右兵衛督、大和守、明法博士、左右衛大尉、検非違使大尉などを代々世襲した。
しかし源氏平家の台頭によって坂上氏は鎌倉時代には一般官僚や鎌倉御家人へと衰退していく。

田村麻呂は子に大野、広野、浄野、正野、広雄、高道、春子らがいる。
大野流坂上氏、広野流坂上氏、浄野流坂上氏の三家を併せて坂上本家という。

長男の坂上大野は従五位下陸奥鎮守副将軍になり家督を継いだものの早世した。

次男の坂上広野は、早世した兄の大野に代わり家督を継ぎ、朝廷より杭全郷を所領として賜った。平野七名家の祖としても有名で、その子孫には安井道頓を輩出する。
広野流の坂上有行の妻が藤原秀郷の孫藤原千清で、間に産まれた五男が千清の養子となり藤原遠頼となって、頼遠の子藤原経清奥州藤原氏の祖となったという説もある。

三男の坂上浄野は次兄の広野も早世したことで、広野と坂上氏の家督を継ぎ、坂上本家と坂上党武家団の流れを保つことになる。
浄野‐当道‐恒蔭の系統は坂上党武家団棟梁や山本荘司を輩出する。
藤原摂関家と深く結び付いた清和源氏源満仲は摂津守になると、恒蔭の子坂上頼次を摂津介に任命して、頼次は初代山本荘司となる。二代山本荘司の坂上季長は浦部城主の経歴から浦部姓を名乗った。三代山本荘司の坂上季猛(卜部季武)は頼光四天王として源頼光と共に活躍し、四代山本荘司の坂上頼継前九年の役で源頼義、義家の窮地を救い「坂武者」の誉れが後世に語り継がれる。山本荘司は34代まで続いた。

浄野‐当道‐好蔭の系統は清水寺別当等を輩出する。特に好蔭の子坂上是則は三十六歌仙の一人であり、小倉百人一首の31番の詠み人として著名である。

浄野‐内野‐顕麿の系統は古哲の代に田村氏を名乗った。田村氏は戦国時代に入ると伊達政宗の正室愛姫を輩出し、愛姫は田村氏の再興に尽力した。

娘の春子は桓武天皇の室に入り葛井親王を産む。葛井親王の孫娘となる棟貞王女清和天皇の室として貞純親王を産む。そのため坂上田村麻呂の血統は清和源氏へと連なっている。

刀剣

坂上田村麻呂の刀剣とされるものも多数残されている。


田村麻呂伝説

後世に希代の名将や、毘沙門天の化身として武将に崇敬されたため、坂上田村麻呂にまつわる様々な伝説が各地で語られるようになる。
伝説は主に「討征譚」と「寺社縁起譚」のふたつからなる。

討征譚

坂上田村麻呂が討征したとされる有名な悪鬼悪龍は日本三大妖怪の一角である大嶽丸をはじめ、全国的に多数語られている。


ただし上記の悪鬼悪龍のうち、保呂羽山から由加山までは田村麻呂が史実で訪れたとは考えられていない。
大半は伝説の武人である田村麻呂にあやかって後世に付け加えられたり、別の人物の伝説がいつしか田村麻呂に置き換えられて伝えられたものと考えられる。

風評被害

悪鬼悪龍とはまつろわぬ民であり、田村麻呂による虐殺の歴史を朝廷側が正当化したとの説が一部で唱えられ、田村麻呂こそが鬼神魔王であるとする書籍まである。
しかし、田村麻呂による悪鬼悪龍の討伐譚は後世の人によって後付けで創作された伝説に過ぎず、田村麻呂に無実の罪を着せる風評被害と言わざるを得ないのが現実である。
伝説は伝説にすぎず、史実ではないことに注意。

寺社縁起譚

縁起譚も数多く残されており、東北地方を中心に西日本にかけて神社仏閣の創建縁起や奉納品の由緒として坂上田村麻呂の名前が徳政相論えられる。
富士山本宮浅間大社の創建(移転)を初め多くの由緒が大同年間、特に大同二年に集中している。

説話

室町時代中期から後期に成立した御伽草子『田村の草子』では親子三代に渡る説話が描かれている。
天女の鈴鹿御前と契りを結んだ田村麻呂は、鈴鹿御前の助力を得て鈴鹿山の鬼神である大嶽丸を討った。
さらに朝廷より高丸という鬼の討伐を命じられ、高丸を追って近江、駿河、奥州を転戦した末に討伐したという。

『田村の草子』は江戸時代にかけて東北で広く知られ、東北に残る田村麻呂伝説と融合して奥浄瑠璃『田村三代記』として成立していく。
あらすじは概ね同じだが、祖父は「妖星が天から砕けて降りた童子」で祖母は「龍(大蛇)が化身した女人」であり、その間に生まれた父と「鬼女の悪玉姫」との間に生まれたのが田村麻呂であるなど、史実とはかけ離れた出生で語られる。

関連タグ

<総合>
日本史 平安時代 桓武天皇 阿弖流為 征夷大将軍 蝦夷

<伝説>
鈴鹿御前(立烏帽子) 大嶽丸 悪路王 阿久良王

<関連キャラクター>
坂ノ上おじゃる丸(おじゃる丸):モデル
坂上田村麻呂(Fate):モデル
坂上覇吐(神咒神威神楽):モチーフ

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