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坂上田村麻呂

さかのうえのたむらまろ

征夷大将軍として有名な平安時代初期の公卿・武官。蝦夷征討に功績を残し、平城太上天皇の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。平安京の守護神として崇敬された武芸の神。伝説では怪異討伐のオーソリティーとしても知られ、悪鬼悪龍の討伐伝説が日本一多い英雄でもある。
目次 [非表示]
  1. 平安時代の公卿、武官。この項で説明
  2. 坂上田村麻呂をモデルにした伝説上の人物。 ⇒ 坂上田村丸

プロフィール編集

生誕天平宝字2年(758年)
没年弘仁2年5月23日(811年6月17日)
官位大納言正三位右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位
主君光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族坂上忌寸→坂上大忌寸→坂上大宿禰
父母父:坂上苅田麻呂、母:不明(畝火浄永の娘?)
坂上大野広野浄野正野広雄高道春子

生涯編集

生い立ち編集

天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男もしくは三男として誕生。生年は国家が編纂した正史に残る没年からの逆算。母は不明(畝火浄永の娘?)。誕生した場所は平城京田村里が有力な候補地ではあるがこれも不明。


宝亀11年(780年)、光仁天皇の下で近衛将監に就任。将種坂上氏らしく武官として出仕した。天応元年(781年)4月3日に光仁天皇が山部親王に譲位して桓武天皇が即位すると「軍事と造作」(蝦夷征討と平安京造営)という特異な治世下で出世していく。

延暦3年(784年)11月、が平城京から長岡京へと遷都された。


延暦4年(785年)6月、苅田麻呂が桓武天皇に上奏して東漢氏一族が宿禰姓を賜姓。坂上氏は大忌寸姓であったことを理由に大宿禰姓としている。

この年の9月に「藤原種継暗殺事件」が起こる。桓武天皇の留守中に造長岡宮使・藤原種継が造宮監督中に矢で射られて翌日薨去。この事件に関与したとして皇太弟・早良親王が廃されて配流、噴死。11月に桓武天皇の子である安殿親王が立太子され、田村麻呂も従五位下に叙された。以後、桓武天皇は大怨霊・早良親王に悩まされていく。


延暦5年(786年)年1月7日、父・苅田麻呂が死去したため田村麻呂は一年間喪に服した。この頃の朝廷の動向はというと、長岡京では桓武天皇が早良親王の怨霊に悩まされる一方、陸奥国でも蝦夷(えみし)との戦いが激化、延暦8年(789年)の第一次蝦夷征討では征東大使・紀古佐美率いる朝廷軍がアテルイ率いる蝦夷軍に惨敗した。


平安時代の幕開け編集

軍事と造作の相次ぐ失政から、第二次蝦夷征討は延暦9年(790年)の早い時期から準備が進められ、延暦10年(791年)1月18日には田村麻呂も百済王俊哲と共に兵士・武器を点検するために東海道へと派遣され、朝廷軍が整えられていく。同年7月13日、征東将軍に大伴弟麻呂、征東副使に百済俊哲・多治比浜成・坂上田村麻呂・巨勢野足が任命された。蝦夷に対する懐柔策も同時進行されていたようで、延暦11年(792年)1月頃より蝦夷から朝廷へ帰順の申し出が相次いでいる。


延暦12年(793年)2月17日、征東使が征夷使へと改められ、征夷副使となった田村麻呂は21日に辞見して長岡京より陸奥へと出征した。

延暦13年(794年)6月13日、田村麻呂が蝦夷を征した。畿内では10月22日に長岡京から新京へと遷都され、11月8日に平安京と名付けられていた。11月28日、弟麻呂より「457級を斬首し、150人を捕虜とし、馬85疋を得、75処を焼き落す」との戦勝報告が平安京に届けられた。田村麻呂の戦果については不明。

延暦14年(795年)1月29日、弟麻呂らとともに平安京へと帰京。長岡京から出征している朝廷軍は平安京へと凱旋した。早良親王の怨霊を恐れてわずか10年で2度目となる遷都に民は疲弊し、不満が溜まっていたところに、第一次蝦夷征討で惨敗していた蝦夷討征を成し遂げて凱旋し、副使でありながら中心的な役割を果たした田村麻呂は平安時代の幕開けと共に朝廷の守護者として英雄視されていく。


征夷大将軍として編集

延暦15年(796年)1月25日に陸奥出羽按察使・陸奥守、10月27日に鎮守将軍を兼任。多賀城に赴任すると稲作養蚕の普及に力を入れた。

延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に任命され、第三次蝦夷征討における陸奥の戦役を指揮する官職を4つ全て兼任した。延暦17年(798年)閏5月24日に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛中将に昇進したことで、肩書きが従四位上征夷大将軍兼近衛権中将兼陸奥出羽按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍とやたら長くなる。

清水寺を創建したとされるのもこの頃である。本堂には長岡京内裏正殿(紫宸殿)もしくは長岡京内の田村麻呂の屋敷が移築されたという。清水寺の起源となる堂宇が建てられた鹿間塚がいまも残されている。


延暦20年(801年)2月14日、桓武天皇より節刀が下賜され、4万の軍勢・軍監5人・軍曹32人を率いて平安京から陸奥へと出征。9月27日に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」と記されるのみで、どのような戦果を残したのか定かではないが、胆沢を律令国家の掌中に収めるという目的は達成したと考えられる。10月28日に帰京して節刀を天皇に返還、第三次蝦夷征討が終わる。


延暦21年(802年)1月9日、造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥へ戻ると、4月15日に田村麻呂から平安京へ報告が届けられた。内容は「大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が一族500余人を連れて降伏をしてきた」というものであった。7月10日にアテルイとモレに付き添って平安京へと帰京、8月13日には「陸奥に帰りたいと願い出ているので帰して、陸奥の経営にあたらせましょう」と申し入れるものの、公卿が反論したことでアテルイとモレは河内国で捉えられて斬られた。

延暦22年(803年)3月6日、今度は造志波城使として陸奥へと向かっている。


天下の徳政相論編集

延暦23年(804年)1月19日、桓武朝による第四次蝦夷征討が計画され、再び征夷大将軍に任命された田村麻呂が準備が進める一方、5月に造西寺長官、8月7日に和泉国・摂津国へ天皇巡幸の仮宮殿・行宮設置の視察をしている。延暦24年(805年)6月23日には48歳で坂上氏出身者としてはじめて参議に任じられた。参議への出世は渡来系氏族としても快挙となる。


延暦24年12月7日、中納言藤原内麻呂に勅が下り、参議・菅野真道と参議・藤原緒嗣が殿上で天下の徳政について議論した「徳政相論」が起こる。田村麻呂も参議として参列していたと考えられる。緒嗣は桓武天皇の治世への批判になろうとも「軍事と造作が民の負担となってる」と論じ、桓武天皇がこれを認めたことで第四次蝦夷征討が中止となった。桓武天皇による軍事と造作の時代がここに終焉したが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号を生涯に渡ってその身に帯び続けた。


公卿として編集

延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇が崩御する。自ら立つこともままならないまま号泣された皇太子・安殿親王を、田村麻呂と春宮大夫・藤原葛野麻呂が抱きかかえて殿を下り、そのまま玉璽(八尺瓊勾玉)と宝剣(天叢雲剣)を奉じた。18日に中納言、21日に中衛大将を兼ね、5月18日に安殿親王が平城天皇に即位すると側近として重んじられていく。

平城天皇の勅命を奉じて富士山本宮浅間大社を現在地に遷座して社殿を造営したとされるはこの頃である。


大同2年(807年)4月12日、右近衛大将となり、8月14日に侍従を兼任。10月に「伊予親王の変」が起こると、11月12日に伊予親王と母・藤原吉子が心中した。この事件では藤原雄友藤原乙叡も処分さたことで藤原南家が没落することになるが、平城天皇の侍従であった田村麻呂がこの事件にどのような対処をしたかはわかっていない。11月16日に兵部卿を兼任、大同4年3月30日に正三位に進む。


平城太上天皇の変(薬子の変)編集

大同4年(809年)4月1日、平城天皇が健康上の理由で皇位を皇太弟・神野親王に譲位して上皇となり、皇太子には平城天皇の高岳親王が立てられた。平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子とその兄・藤原仲成は譲位に反対するものの、13日に嵯峨天皇が即位する。譲位後に健康を回復させた平城上皇は12月4日に生まれ故郷の平城京へと移り住んだ。


嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、6月には平城天皇の治世で設置された観察使の制度を廃止する。これに激怒した平城上皇を薬子と仲成が助長したことで二所朝廷といわれる対立が起こる。

9月6日に平城上皇が平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を発したことで「平城太上天皇の変(薬子の変)」が始まる。平城京遷都の詔勅にひとまず従った嵯峨天皇は、坂上田村麻呂・藤原冬嗣紀田上らを平城京造宮使に任命した。

9月10日、平城京遷都の拒否を決めた嵯峨天皇は、固関使を伊勢国・近江国・美濃国の国府に派遣して仲成を捕らえ、右兵衛府に禁固の上で佐渡権守に左遷し、薬子には尚侍を剥奪して宮中から追放の詔を発した。この日の一連の流れのなかで田村麻呂を大納言に昇任させて事件に対処させている。

嵯峨天皇側の動きを知った平城上皇は激怒して9月11日早朝、挙兵することを決断し、薬子と共に輿に乗って東国へと向かった。平城上皇側の動きに対して嵯峨天皇は、すぐさま田村麻呂に上皇の東国行きを阻止する命を出す。田村麻呂は美濃道より上皇を追うにあたり、上皇側についたとして禁固されていた文室綿麻呂の同行を願って許可されている。田村麻呂は宇治・山崎両橋と淀市の津に兵を配した。この夜に仲成が射殺されている。

9月12日、平城上皇が大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。平城上皇は田村麻呂に阻まれたことで東国行きを諦め、平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。ここに平城太上天皇の変が終結し、同時に藤原式家も没落した。この事件では空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している。


晩年編集

弘仁2年(811年)1月17日、嵯峨天皇が豊楽院で射礼を観覧した際に12歳の葛井親王の武芸を褒めた。1月20日には中納言・藤原葛野麻呂や参議・菅野真道らと共に、前年の暮より入京していた渤海国の使者を朝集院に招いて饗応した。


田村麻呂は粟田口の別荘で病の身を臥せていたが、弘仁2年5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は田村麻呂の死を悼んで「事を視ざること一日」と政務を取らず、田村麻呂を讃える漢詩を作って一日を過ごした。

27日に葬儀が営まれ、その日のうちに山城国宇治郡来栖村に葬られた。その際に天皇から勅があり、死後も平安京の守護神となるよう甲冑兵仗と共に立ったまま柩に納められ、平安京の東へと向かって埋葬された。嵯峨天皇は田村麻呂の遺品の刀剣から一振りを選んで坂上宝剣とし、皇室を守護する御剣として御府に納め、歴代天皇に相伝される王権の象徴となった。


系譜編集

著名な子孫に三十六歌仙坂上是則頼光四天王坂上季猛伊達政宗の正室・愛姫などがいる。


田村麻呂の孫・坂上当道の子である坂上当澄は、小野篁の養子となって小野良実に改名したとの説がある。篁が承和5年(843年)に隠岐へ流罪されると、良実も連座して肥後国へ配流され、前年の承和4年(842年)に起こった「承和の変」で出雲に左遷された文室秋津の娘が肥後国の良実のもとで妻となり、承和12年(845年)頃に長女・寵子、嘉祥3年(850年)頃に次女・小野小町が生まれたとされる。良実は貞観7年(865年)3月に出羽郡司として下向した。坂上氏、小野氏、文室氏は軍事貴族として関係が深かった。


死後と神格化編集

現在、田村麻呂が埋葬されたのは京都市山科区の「西野山古墓」とされている。歴代将軍が平安京より出征する際には、田村麻呂の墓で戦勝を祈願するのが慣例であった。西野山古墓付近から出土した金装大刀や金銀平脱双鳳文鏡など一級の副葬品から、埋葬者は最上級の扱いで葬られた貴族であったことが窺え、その出土品は一括して国宝に指定されている。


弘仁3年(812年)、嵯峨天皇の勅によって鈴鹿山の二子の峰に祭壇が設けられた。田村麻呂が弓箭を納めたという地に綿麻呂が祠を建てたと伝わる田村大明神がある。鈴鹿大明神と共に鈴鹿峠を守る夫婦神として東海道を往来する旅人に崇められた。田村大明神と鈴鹿大明神は共に片山神社に合祀されている。

弘仁13年(822年)4月8日には、坂上田村麻呂公を主祭神とする滋賀・田村神社が創建され、厄除の大神として今も崇敬される。

子孫である坂上季猛(卜部季武)が田村麻呂の御持弓を御神体として創建した宝塚・松尾神社は、将軍家の祖神として源頼朝足利尊氏など歴代将軍から崇敬された。


人物編集

外見編集

身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(約36cm)の堂々とした姿であった。眼は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだ様に光っていたという。

この事から創作作品では金髪碧眼キャラで描かれる事もある。 


器量編集

立ち居振舞いは、怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであったと、その誠実さや高潔な品性を称えられた。武芸についても張良の武略と蕭何の奇謀を併せ持つと最大級の賛辞が贈られている。


毘沙門天の化身編集

『公卿補任』に「毘沙門の化身、来たりて我が国を護る」とあり、生前には毘沙門天の化身と評価されていた。『陸奥話記』では「北天の化現にして希代の名将」と記されている。

毘沙門天と同一視された源流は、岩手県北上市の準官寺・陸奥国極楽寺(国見山廃寺跡)に「田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀った」とする由緒からである。この極楽寺の影響から田村麻呂と同一視された毘沙門天が造像されて北上川流域に成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂などが広まり、東北地方の毘沙門天信仰は田村麻呂と結びつけられて伝説化していった。この地方の「毘沙門天の脛に味噌を塗る」という風習も、泥の中から現れた毘沙門天が足下を泥に塗れながら田村麻呂の窮地を救ったという伝説による。

奥州藤原氏が栄華を極めた時代に悪路王伝説が創出された平泉の達谷窟毘沙門堂では、大将軍(坂上田村麿公)の本地を毘沙門天とする田村信仰発祥の霊場としている。


信仰編集

田村麻呂自身は観世音菩薩に篤く帰依した。京都・清水寺創建の大本願とされ、開山堂(田村堂)では坂上田村麻呂・高子夫妻の木像が安置されている。また坂上氏の氏寺とされ、田村麻呂の子孫は清水寺別当を世襲した。

清水寺の本尊は「清水寺形千手観音」という特殊な形式であり、両脇侍も地蔵菩薩と毘沙門天とする特殊な三尊形式である。両脇侍は清水寺創建の由来を綴った清水寺縁起に由来して別名「勝軍地蔵」「勝敵毘沙門」と呼ばれ、地蔵菩薩は鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。

京都の伝説は清水寺縁起をベースとして千手観音が鈴鹿山の鬼神討伐を手助けするなど、田村麻呂を毘沙門天の化身とした東北地方の伝説とは趣が異なる。


評価編集

第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の倫理講堂に、小堀鞆音の描いた学問の菅原道真と武芸の坂上田村麻呂の歴史画が文武両道の象徴として飾られていた。現在は駒場博物館所蔵。


平安時代を通じて優れた武人として厚く尊敬されたため、後世に様々な影響を与えている。軍記物語では田村麻呂に由来を求める記述が数多くあり、『義経記』では源義経が学んだという兵法書「六韜三略」は田村麻呂が読んで功績を残したものとされ、『太平記』では新田義貞の振るう「鬼切」は田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせに使用したとされた。


大正5年(1916年)に丙五圓紙幣の候補として名前が挙がったが、時代は日清日露戦争の直後、第一次世界大戦真っ只中であった。しかし国粋主義的な時世のため、渡来系氏族であった田村麻呂は相応しくないとされたため断念した。戦前に紙幣の候補となった7人(武内宿禰日本武尊聖徳太子藤原鎌足和気清麻呂・坂上田村麻呂・菅原道真)のうち、現在まで紙幣に描かれなかったのは田村麻呂だけである。


その他編集

2020年代からは狂気的な黒人主義者が「日本には坂上田村麻呂という黒人の将軍がいた」と主張し海外で混乱とデマを広めている。


実際に坂上田村麻呂黒人説と呼ばれるものが戦前の時代から存在しており、トンデモ説のひとつとして度々取り上げられることがある。(参考)


ちなみにこのネット記事によると、現存する記録資料からの推察に従えば『むしろ白人系、もしくはペルシャ系の血脈であることをうかがわせる美丈夫だったということになる』とのこと。



関連人物編集

親族編集

<父母>

坂上苅田麻呂(父) 畝火浄永娘(母)?


<兄弟>

坂上石津麻呂(兄) 坂上広人(兄) 坂上鷹主(弟) 坂上直弓(弟) 坂上鷹養(弟) 坂上雄弓(弟)

坂上又子(妹・桓武天皇後宮宮人) 坂上登子(妹・藤原内麻呂室)


<配偶者>

三善高子(三善清継娘)


<子>

坂上大野(長男) 坂上広野(次男) 坂上浄野(三男) 坂上正野(四男) 坂上滋野(五男) 坂上継野(六男) 坂上継雄(七男) 坂上広雄(八男) 坂上高雄(九男) 坂上高岡(十男) 坂上高道(十一男)

坂上春子(長女・桓武天皇後宮宮人) 氏名不詳(藤原三守妻)


その他編集

光仁天皇 桓武天皇 平城天皇 嵯峨天皇

アテルイ モレ

坂上是則三十六歌仙。子孫

坂上季猛頼光四天王。子孫

愛姫伊達政宗正室。子孫


関連タグ編集

<総合>

日本史 奈良時代 平安時代

将種 武官 貴族

征夷大将軍 大納言 右近衛大将


<刀剣>

坂上宝剣 金装大刀 楚葉矢の御剣 騒速 黒漆剣

雷除鬼神丸 血吸(童子切安綱) 鬼切安綱


<伝説>

坂上田村麻呂伝説 坂上田村丸

鈴鹿御前(立烏帽子) 小りん

日本三大妖怪 大嶽丸

高丸 悪路王 大武丸 人首丸

魏石鬼八面大王 金平鹿(多娥丸) 阿久良王

阿久利黒

聖剣 ソハヤノツルギ

角突弓 神通の鏑矢

津軽の北斗七星


関連キャラクター編集

薄紅天女編集

⇒坂上田村麻呂


おじゃる丸編集

おじゃる丸と電ボ

坂ノ上おじゃる丸

CV:小西寛子(放送開始~2001年3月放送分) → 西村ちなみ(2001年4月~現在)

モデル。


阿弖流為II世編集

⇒坂上田村麻呂

アテルイと同じく異星人。邪なる破壊神。


神咒神威神楽編集

雪の降る秀真の都が始まりでした。

坂上覇吐

CV:宮下栄治(CS版) / 堀川忍(PC版)

荒覇吐とともにモチーフの1人。「ヌキヌキポン」


しわまろくん編集

⇒しわまろくん

志波城古代公園マスコットキャラクターゆるキャラ)。田村麻呂と、古代志波村の村長アヌシコの娘アヤメとの間に生まれた。


たむらまろさん編集

⇒坂上田村麻呂


Fateシリーズ編集

坂上田村麻呂(Fate)


阿・吽編集

⇒坂上田村麻呂


妖怪百姫たん!編集

坂上田村麻呂

⇒坂上田村麻呂

CV:仲村かおり


一血卍傑編集

タムラマロ

CV:川上晃二

スズカゴゼン歳の差カップルタムスズ尊い……。


英雄*戦姫WW編集

⇒坂上田村麻呂


戦国アスカZERO編集

⇒坂上田村麻呂

CV:石川由依


モンスターストライク編集

⇒坂上田村麻呂

CV:坂田将吾

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