概要
大同5年(810年)に藤原仲成と薬子が平城上皇重祚と平城京へ遷都を企てた事件。
内容
平城天皇即位から退位まで
延暦25年(806年)に平城天皇が即位し薬子は天皇の女官として仕えた、大同4年(809年)に天皇は病気を理由に弟神野親王(嵯峨天皇)に譲位し平城京へ移った。
平城上皇側の企て
譲位した後に嵯峨天皇によって蔵人所を設置、更に観察使が廃止となり参議の職が復活し上皇の不満が高まった、大同5年(810年)に上皇は平城京へ遷都の詔を出し重祚を望んだ、この事実を知った天皇は企てを起こした薬子の官位を剥奪、仲成を捕らえた、上皇は挙兵をするが天皇が派遣した坂上田村麻呂により阻止された、最終的に上皇は平城京に戻り出家、天皇の皇太子高丘親王は廃太子、仲成は佐渡権守に左遷された後に射殺、薬子は毒を飲み自殺した。
事件後
この一件で藤原式家が没落し以降の時代は藤原北家が台頭するようになった。