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藤原薬子

ふじわらのくすこ

平安時代初期の女官。平安時代における「悪女」と名高い人物とされており、後に「薬子の変」と呼ばれる騒動を引き起こした。

概要編集

平安時代初期の女官。藤原式家、藤原種継の娘。

生年不詳~大同5年9月12日(810年10月17日)798年の時点で40歳だったのではないかといわれている。


平安時代において稀に見る悪女と呼ばれており、「薬子の変」と呼ばれる事件の首謀者とされているが詳しい真相は現在でもわかっていないところが多い。


経歴編集

藤原式家の藤原種継の娘として誕生。母親が誰なのかは記録に残されていないが、兄には藤原仲成、姉妹に藤原東子がいる。

その名前は、種継の母が医学に優れた秦朝元だったことが記録されており、それにあやかって名付けたとする説が有力。

785年に父・種継を暗殺によって失う。


中納言藤原縄主と結婚し、三男二女の母となる。

父・種継暗殺事件の首謀者とされた早良親王の代わりに安殿親王が立太子すると、縄主と薬子の長女を妃に欲した。まだ幼く世間知らずな娘一人では心細いだろうと薬子も縄主の勧めで輿入れに同行したものの、安殿親王は娘よりも母の薬子に夢中になってしまい、いつまでも引き留めて離そうとせず、ついには安殿親王と薬子は不倫関係になってしまう。

安殿親王の寵愛を受けた薬子は東宮宣旨となるが、安殿親王の父である桓武天皇に不倫の事実が知られ、宮中から追放される。


806年に桓武天皇が崩御し、安殿親王が平城天皇として即位すると宮中へ呼び戻され、尚侍として天皇の寵愛を受けることとなる。夫の縄主を九州に遠ざけられると、天皇の寵愛を受けた薬子は兄の仲成とともに政治に介入し、専横を極めるようになった。


のちに平城天皇は体調不良を理由に弟の嵯峨天皇へ位を譲り上皇となる。

譲位後、平城天皇は平城京に拠点を移したがこのため平安京と平城京に朝廷が並立するようになり、薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図ったため二朝の対立は決定的になった。


810年、兄の仲成が嵯峨天皇にとらえられ、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。

薬子は平城上皇とともに挙兵するために東へ向かったものの、先手を打った嵯峨天皇が坂上田村麻呂を派遣し、待ち構えていた。

勝機が無いことを悟った平城上皇は平城京へ戻って出家し、仲成も打ち取られ、薬子自身も毒を飲み自ら命を絶った。


これが世にいう薬子の変である。

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