概要
生没年 宝亀5年(774年)~天長元年(824年)
宝亀5年(774年)、桓武天皇の第一皇子、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)を母として生誕、諱を安殿(あて)とする。同母弟に神野親王(第52代・嵯峨天皇)、異母弟に大伴親王(第53代・淳和天皇)らがいる。
即位から退位まで
延暦4年(785年)9月、父帝の信任が厚く中納言・式部卿を務め、長岡京造営の長官を兼ねていた藤原種継が監督中に殺害され、大伴継人(伴善男の祖父)・大伴竹良らが捕縛・処罰される事件が起きた。
この事件に皇太子・早良親王(父帝の同母弟)の側近も捕縛されたことから、皇太子も関与していたのではないかとの疑惑が起こり、結果、親王は皇太子としての地位を剥奪され乙訓寺に幽閉、親王は不満を抱いたまま絶食の後衰弱死した。
早良親王を廃して後、桓武天皇は安殿親王を皇太子として立て、親王は参議・藤原縄主と藤原薬子の娘を後宮に迎えるが、若い皇太子に取り入った薬子は権勢をふるい、後宮の秩序を著しく乱したかどにより、激怒した桓武天皇に追放された。
大同元年(806年)、桓武天皇が崩御したことにより即位。
宮中に呼び戻された藤原薬子が後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ)に就任、天皇の病弱もあって薬子の兄・藤原仲成も権勢をふるい、宮廷は大いに乱れた。
この間、天皇は長岡京・平安京造営、蝦夷征討などの事業によって逼迫した国家財政の緊縮化と公民の負担軽減に着手、官司の整理統合や冗官(役職についていない役人)の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭をつけた。また、地方官を監視する観察使を設置するなど、律令制に力をつくした。
薬子の変
大同4年(809年)、病状が回復しないことを理由に同母弟・神野親王(嵯峨天皇)に譲位、しかし、しばらくすると平城上皇は健康を回復し、国政への意欲を示しはじめた。
これにより、嵯峨天皇と平城上皇から別の政令が出るという異例の事態になり、藤原薬子・藤原仲成も重祚を促し、上皇も天皇復位の意向を示すありさまとなった。
同年11月、上皇が平城京に新た宮殿の造営をはじめ、翌大同5年(810年)に平城京遷都を宣言するに及んで朝廷は平安京にあった藤原仲成を捕縛、藤原薬子は官位を剥奪されるにいたった。
あわてた上皇は東国に逃亡を図るが、坂上田村麻呂の軍勢に阻まれ、平城京につれもどされた一方、藤原薬子は自害、藤原仲成は処刑された。
事件後、上皇は出家、皇太子に立てられた上皇の第三皇子・高丘親王も廃され、新たに桓武天皇の第七皇子・大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。
天長元年(824年)7月、近臣を追放されたことにより平城京に孤立し、幽閉されたまま崩御、楊梅陵(奈良市佐紀町)に葬られたとされている。
なお第一皇子・阿保親王の子息は在原姓を下賜されたうえで、臣籍降下している。親王の次男・三男が歌人として名高い在原行平と在原業平である。
第三皇子だった高丘親王も出家して真如と名乗り、弘法大師空海の直弟子になった。
皇統
・巨勢親王
・上毛野内親王
・石上内親王
・大原内親王
- 宮人:葛井藤子 ー 葛井道依の娘
・阿保親王
- 宮人:紀魚員 ー 紀木津魚の娘
・叡奴内親王
- 上皇妃:甘南美内親王 ー 桓武天皇の皇女
皇位