伴善男
とものよしお
誕生前から善愷訴訟事件まで
善男が生まれる前、大伴氏は藤原種継暗殺事件に関与した祖父の継人は処刑され、父の国道は佐渡に配流された。さらに累は本家筋である旅人(曾祖父・古麻呂の伯父とも)の系統にまで及び旅人の孫すなわち家持の一人息子である永主は隠岐に配流され、すでに死去していた家持までも官位を剥奪されるなどの苦難に遭った。永主さらに家持の弟たちまでもが男子を残せず死去していたために旅人系は絶えてしまい残った国道の系統が大伴氏改め伴氏の本流となった。国道は佐渡配流時代に賢人と評判になり、恩赦で朝廷へ召還された後は内官としても地方官としても功績を挙げ最終的には従四位上参議にまで昇進し天長5年(828年)に齢61で逝去した。ちなみに大伴姓から伴姓に改めたのも国道である。
善男は弘仁2年(811年)に誕生、最初は校書殿の役人となり後の承和8年(841年)に大内記となる。蔵人・式部大丞となり承和10年(843年)に従五位下右少弁となる。承和13年(846年)に善愷が訴訟を起こすが右大弁正躬王ら弁官5人が不正を行った事を糾弾し翌年の承和14年(847年)に事件は終息した。(善愷訴訟事件)
応天門の変
嘉祥元年(848年)に参議となり右衛門督・検非違使別当・中宮大夫となり貞観2年(860年)に中納言、貞観6年(864年)に大納言となる。この頃、朝廷では藤原良房の権勢が強く摂政の地位を望んでいたが善男は左大臣源信(源融の兄)と共に反対していた。ところが善男と信も犬猿の仲であり、貞観8年(866年)に応天門が焼失した際に、信を犯人と訴えた。のち信は無実となるが、逆に善男が良房によって長男の中庸と共に犯人として捕らえられ善男は伊豆へ配流され貞観10年(868年)に享年58で死去した(応天門の変)。
その後、伴氏は善男の孫である春雄が従五位安芸守になり子の保平は諸国の国司を歴任し最終的には従三位参議に昇ったものの、保平を最後に朝廷で顕官ところか地方の国司に就く人物さえも現れず、子孫は朝廷の地下官人や地方の在庁官人に甘んじることになる。
子孫を名乗る家は少ないが、戦国時代に南九州の大隅を本拠とし薩摩の島津貴久・義久に敗北し屈服した肝付氏は善男の玄孫兼行を祖としているという。