概要
平安宮の南門応天門が放火された事件。
内容
貞観6年(866年)に応天門が放火される事件が発生、事件後に大納言伴善男が右大臣藤原良相に左大臣源信が犯人だと訴え良相は兵を率いて信の邸宅を包囲した、この事態に参議藤原基経は父で太政大臣の藤原良房に伝え良房は清和天皇の元へ事態を報告、天皇は信が無実であることを伝え、信は無実となった。
同年の8月に備中権史生大宅鷹取が事件の犯人を伴善男と善男の子中庸だと訴えた、鷹取は善男の従者生江恒山に娘を殺された恨みで事件の犯人を告発した、善男の従者は捕らえられ尋問を受けるが最終的に善男と中庸が犯人だと白状した。その後善男、中庸、紀豊城が捕らえられるが無実を主張、後に罪を認めた。罪状は流罪となり善男は伊豆国、中庸は隠岐国、豊城は安房国へ流され善男の従者も流罪の処分を受けた、この事件により伴氏は没落した。
同年藤原良房が摂政となり藤原氏全盛期のきっかけとなった。