概要
996(長徳2)年に藤原伊周(正三位内大臣)、隆家(従三位権中納言)兄弟が花山法皇を襲撃した事件である。
当時伊周は藤原為光(祖父・兼家の弟)の三女の元へ通っていたが、花山法皇も四女の元へ通っており、伊周は「三女の元へ法皇も通っている」と誤解し隆家に相談した。
隆家は従者に命じさせ法皇を矢で襲撃し、矢は法皇の衣に命中し法皇の従者も殺害された。花山法皇は「出家した身で女通いしたら襲われた」という醜態がばれるのを恐れて口を閉ざしていたが、事件はあっという間に広まった。
この事態は政敵である叔父・道長(従二位内覧・右大臣)に伝わり、伊周は法皇襲撃及び叔母で一条天皇の生母・詮子を呪詛したとして大宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷された。また連座として、叔父である高階信順(従四位下左中弁)は伊豆権守、道順(右兵衛佐権木工権頭)は淡路権守、異母兄弟の頼親(正五位下左近衛中将)と周頼(右近衛少将)は殿上簡削除(出仕停止)の処分を受けた。
事件後に一条天皇の皇后であった妹の定子は出家、伊周らの生母である高階貴子も亡くなるなど不幸が重なった。
長徳3年に伊周と隆家は赦免され定子も還俗して宮中に戻ったが、以降中関白家が力を上げることは無かった。