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藤原伊周

ふじわらのこれちか

平安時代中期の公卿。藤原道隆と高内侍こと高階貴子の長男。藤原道雅の父。
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中関白家の嫡男として

父・道隆には既に長男の道頼が誕生していたが、道隆は貴子を正室として重んじた為、三男の伊周を跡取りにした。幼名は小千代君。

才女と呼ばれた母譲りの文才で、特に漢学に優れていた。一条天皇の漢学を教えたこともある。

寛和元年(985年)11月20日に12歳で元服。

祖父の兼家亡き後、父・道隆が摂政に就任。さらに妹の定子が一条天皇の中宮になると、舅から譲られたとはいえ権大納言という高い地位へと世間も驚くスピード出世を遂げた。

20歳の時に、父が道長たちを差し置いて伊周を強引に内大臣の地位に就けた。
若輩の伊周が内大臣に就いたことは、叔父の道長をはじめとする公家たちからの不満を買うことになり、伊周が宮廷で孤立してしまう原因のひとつになってしまった。

糖尿病で悪化していた道隆は「自分がやっていた仕事をそのまま伊周に継がせたい」と一条天皇に強く懇願。一条天皇は渋々「道隆が見た書類を伊周が見る」という形式で命じた。伊周は不服に思いながらも朝廷の節約政策を取ろうとするが、「服の裾の長さを統一する」と細かすぎる内容だったため、公家だけでなく義弟の一条天皇とその母・東三条院詮子の不評を買ってしまう。

叔父・道長との対立

周囲が道隆親子への不満をくすぶり続けているなか、父・道隆が亡くなってしまう。最大の後ろ盾を喪った伊周は、叔父の道長と激しい政争を繰り広げることになる。宮廷で激しく口論のほか互いの従者の憎み合いから、道長の従者が伊周の弟・隆家に殺される事件も起きるほどだった。さらには伊周の母方の祖父が道長を呪詛をかけているという噂まで立ち、伊周は不遇の立場に立たされていく。

凋落のはじまり

当時伊周は太政大臣・藤原為光の三番目の娘の元に通っていたが、その屋敷には当時花山法皇が通っており、為光の四番目の娘のところへお忍びで来ていた。伊周は自分の恋人に言い寄ろうとする男がいるという勘違いから、恋敵を殺そうと従者に命じて矢を射かけさせてしまう。(なにやってんですか
その矢は花山法皇の袖を貫通したといわれる。出家した身で女性のもとに通っていたこと、生命の危険を感じた法皇は口を閉じたが、策略家の道長がこの不祥事を見逃すはずがなかった。
伊周が気付いたときはもう遅く事は大きくなってしまい、伊周は太宰府に、弟の隆家は出雲権守に左遷。中関白家の親類縁者さらには母の実家である高階家なども処罰の対象となってしまった。妹の定子は、身籠もっているにも関わらず、兄の身に起きた不幸を嘆き周囲の反対を押し切って出家してしまう。(その後脩子内親王を出産)

東三条院の病気快癒のため、弟共に許されて帰京。定子には敦康親王が生まれていたが、留守の間に道長の権力は絶対的なものになっていた。一条天皇の願いで定子は再び後宮に戻った。道長の娘彰子が入内し、天皇の正妻が二人いる「一帝二后」が成立していた。定子は再び身籠もり内親王を産むも逝去。伊周は冷たく物言わぬ亡骸となった妹を抱いて周囲の目も憚らず泣いたと言われる。伊周を哀れだのか、東三条院と道長から伊周を元の地位に戻すよう一条天皇に伝えた。しかし天皇は最愛の定子を苦しめた原因である伊周を許さなかった。

その後一条天皇の怒りは解け、定子の忘れ形見である敦康親王は皇位継承第一位だった為、周囲から親王の後見人ということで伊周は人々から敬われていた。しかし彰子に敦成親王(後の後一条天皇)が生まれると道長は掌を返したように敦康親王の保護を放棄。それに倣うように貴族たちも親王や伊周から離れていった。

家族に降りかかった不幸

災難は伊周だけでなく家族にも及んだ。遺された親王たちの世話をしていた下の妹の御匣殿は一条天皇から寵愛されるものの出産直後に死亡。三番目の妹である頼子は夫である敦道親王(和泉式部の恋人)に離縁されてしまい、さらに追い打ちをかけるように叔母の高階光子が彰子親子を呪詛する事件を起こし逮捕。伊周が起こした事件は家族に大きな代償を支払う結果となってしまった。

失意の最期

甥が皇位に即く望みも途絶え、失意のまま36歳で亡くなる。
「后がね(天皇のお妃候補)」として育てた娘二人に「くれぐれも、宮仕えをして、親の名に恥をかかせることをしてはならぬ」と、また息子道雅には「人に追従して生きるよりは出家せよ」と遺言を遺した。
その後左京三条三坊八町にあった伊周の邸は、群盗が入るほど荒廃してしまった。

子どもたちのその後

長男の道雅は、三条天皇の娘である当子内親王との密通事件が発覚。その後粗暴な言動から「荒三位」と呼ばれた。別の女性と結婚するも離縁。思うようにいかない世に諦めたゆえが、父の遺言通りに出家した。道雅の息子もほとんど出家している。
長女は藤原頼宗の正室として大事にされた。頼宗との間に三男三女を儲け、その血筋は名門・五摂家にも繋がっている。
次女の周子は、彰子の女房として仕えた。

家族想いが仇に

道隆とその家族は仲が大変良く、特に定子とは大変親しかった。
だが、父の墓参りをしてから太宰府へ行くと傍目から見て駄々をこねたり、さらにはひとりになった母親と出産で実家に帰っている定子の側にいたいという理由で、謹慎中に帰ってくるものの、速攻でバレて連れ戻されるといったエピソードもあり、家族想いの行動が仇になってしまうこともあった。

枕草子でのエピソード

美青年で頭も良く、定子に仕えた清少納言も絶賛されている。定子に沢山の草子(今でいう紙)を贈るものの定子は書き切れないという理由から清少納言に譲ったという。その際に清少納言は草子の数が「枕が出来るほどの量」と感想を言ったことから枕草子誕生に一役買っている。

関連タグ

藤原道隆…父。
高内侍…母。伊周の役職が儀同三司にあたる事から儀同三司母とも呼ばれた。
藤原定子…妹。
敦康親王…甥。
藤原道雅…嫡男。
藤原道長…父方の叔父。
藤原彰子…父方の従姉妹。
清少納言…定子に仕えた女房。

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