概要
生誕:不明~没年:長徳2年(996年)10月
平安時代中期の女流歌人で、女房三十六歌仙の一人。藤原道隆の正室。
また、自身の長子である藤原伊周が准大臣になった際に「儀同三司」を自称しこれが伊周の代名詞になったことから「儀同三司母」とも呼ばれ、小倉百人一首ではこちらの名義で載せられている。
子は伊周以外にも藤原定子や藤原隆家、孫は藤原道雅らがおり、直系の子孫には平治の乱の首謀者の藤原信頼、源実朝の正室である坊門信子(西八条禅尼)、後醍醐天皇の側近だった坊門清忠らがいる。
代々学者を輩出した高階氏の出身で、和歌を能くし、詩文に長け、殿上の詩宴に招かれるほどであった。道隆の妻となってからは、伊周・定子・隆家など3男4女に恵まれた。しかし、道隆が病死してから一変して中関白家は没落の一途を辿り、夫の後を追うように翌年亡くなった。
代表歌は百人一首の第54番。
忘れじの 行く末までは かたければ けふを限りの 命ともがな