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藤原隆家

ふじわらのたかいえ

平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の四男で中納言。
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概要編集

天元2年~寛徳元年(979~1044)

摂政関白内大臣・藤原道隆の息子。兄に藤原伊周、姉に藤原定子がいる。


長徳元年(995)に権中納言に任ぜられるが、同年に内覧・右大臣となった叔父・藤原道長の従者と自身の従者が乱闘騒ぎになった事や、翌年に兄伊周の女性問題が原因で花山法皇障害未遂事件を起こした事を藤原道長に利用され、法王を呪ったとして伊周は大宰権帥に左遷させられ、隆家も出雲権守に流されそうになるも病気を理由に但馬国に留まっている(長徳の変

(昔の教科書や歴史漫画では兄と混同されたのか、彼が太宰府に流されたと記載されていたこともある)


長徳4年(998)に大赦を受けて帰京し、寛弘6年(1009)に中納言に叙任された。この間に姉と兄がそれぞれ亡くなっている。


長和元年(1012)末頃より目の病気に悩まされ、大宰府には眼の治療を行う名医がいるとの話を聞きつけて自ら大宰権帥を志願し、同じように眼の病気に悩まされていた三条天皇の後押しもあって就任。在任中の寛仁3年(1019)に刀伊(女真族)が九州沿岸にて海賊行為を行っていたのに対し、総指揮官としてこれに応戦・撃退し、高麗と交渉して捕虜259名を救出。参加した武将や日本側の海賊への恩賞や、高麗側への謝礼などの後処理を行った。

この戦は「朝廷の指示を待たずに現場の人間である彼が独断で動いたことから恩賞は出さない」という意見もあったが、恩賞を出さなければ次に戦があっても誰も対処しなくなるということで結局支給されることになった。


人物像編集

豪胆な性格から天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名だったようで、皇族であることをかさに着る花山法皇相手に賭け事で挑んだり、姉の子・敦康親王を皇太子にする約束を反故にした一条天皇に対して道理が通らないと文句を言ったり、叔父道長の嫌がらせに屈せず三条天皇の皇后の皇后宮大夫を引き受けたりするなど、気骨のある人物として知られた。ただし、研究者からは敦康親王が皇太子になれなかった一因として隆家が政治的駆け引きが不向きであった(一条天皇から見て道長相手に頼りにならないと評価されていた)からという指摘もある。


政敵ではあったものの道長も彼の事は一目置いていたようで、都に戻った彼を宴に呼んでいる。


姉に仕えた清少納言との数々のやり取りは『枕草子』などに残されている。

隆家が姉に「誰も見たことがない、いい扇子の骨が手に入ったのでプレゼントしたいが、これに見合った紙を探している」と言って来て、定子が「それは何の骨?」と聞かれ、清少納言は「(誰も見たことがないなら)きっとクラゲの骨では?」と言い、これがウケて隆家が「それ自分が言ったことにしてくれない?」と言った下りは有名。


武勇伝からか、晩年少し前に一度引退した太宰権帥に再び任ぜられている。

子孫は道隆流の本流となり藤原秀衡の舅となった藤原基成、弟で平治の乱の首謀者となった藤原信頼源実朝の正室である坊門姫、後醍醐天皇の側近だった坊門清忠などを輩出している。

南北朝時代に九州の南朝方の有力豪族として活動し菊池武時菊池武光父子らを輩出した肥後の菊池氏は隆家の後裔と称している。ちなみに維新三傑の一人である西郷隆盛も菊池氏末裔を称している。



フィクションにおける藤原隆家編集

NHK大河ドラマ編集

演者ゆえか視聴者からは2022年連続テレビ小説ちむどんどん』の比嘉賢秀と比較されがち。


※当初は永山絢斗が演じる予定だったが、大麻所持の容疑で逮捕されたことを受け、竜星が代役として演じることとなった。

関連タグ編集

平安時代 藤原氏

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