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概要

生没年 元応元年(1319年)?~文中2年/応安6年(1373年)?

菊池氏第12代当主・菊池武時の九男(九男は菊池武敏との異説あり)とされる。


兄・武重(第13代当主)の死後、家督を継いだ武士(武時の十二男)を武敏らと補佐していたが、武士の器量のなさを見かねた武光は、興国6年/貞和元年(1345年)、菊池氏の本拠・深川城を北朝軍から奪還したことにより武士を廃して菊池氏の家督を継ぐと、肥後に南朝方の拠点を築きあげた。


正平3年/貞和4年(1348年)、征西大将軍・懐良親王(後醍醐天皇の皇子)を菊池に迎えた武光は、親王のもと南朝方勢力を糾合、九州統一に動いていくこととなる。

懐良親王とともに武光は大宰府に侵攻、一時は北朝勢力を九州から一掃するものの、南朝方についていた少弐氏、大友氏が反旗を翻し、北朝方についていくこととなる。


正平14年/延文4年7月、痛手を被りながらも筑後川の戦いで北朝方・少弐軍を破った武光軍は、正平16年/弘安元年(1361年)、大宰府を陥落させ「征西府」を創設した。


これらの事態を重く見た室町幕府・第2代将軍足利義詮は追討軍を差し向けるが失敗、幕府軍が他国で圧倒するなか、九州だけは南朝勢力が健在であった。


正平23年/応安元年(1368年)、武光・懐良親王らは上洛を計画、出陣したが、制海権を把握する大内氏が立ちふさがったことにより、武光・懐良親王軍は撤退を余儀なくされた。


建徳2年/応安4年(1371年)、幕府が文武両道に優れた名将・今川貞世を派遣すると、翌文中元年/応安5年(1372年)、今川軍に敗れた武光・懐良親王軍は大宰府を放棄、筑前国・高良山に撤退した。

その後も高良山に籠城し、幕府軍を迎え撃ったが、文中2年/応安6年(1173年)11月、陣中で死去、後を継いだ嫡男・武政もその半年後に死去したことにより「征西府」の衰退は決定的となった。


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南北朝時代(日本) 室町時代 室町幕府 懐良親王

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