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高師直

こうのもろなお

生年不詳 - 観応2年/正平6年2月26日(1351年3月24日)。室町時代(南北朝時代)の武将。足利尊氏の執事で、その勇将ぶりとばさらぶり、悲惨な最期で知られる。
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概要編集

※高の名は本姓の高階の一字をとったもので、厳密には苗字ではない。従って名の読み方は「こうもろなお」ではなく、「こうのもろなお」(本姓と氏や諱の間には「の」をつける)と読む。当時は武士であれ公家であれ苗字を名乗るのが当たり前になっていたが、師直一族はその数少ない例外である。ただし後年編纂された勅撰和歌集『風雅和歌集』には本来の名乗りとも言える「高階師直(たかしな・もろなお)」名義で入撰している。


高師直室町時代南北朝時代)の人物。高氏(高階氏)は代々足利氏の執事を務めた家柄で、自らも主君・足利尊氏の執事を務めた。ばさらな言動で知られ、「王(天皇)やが必要というなら木彫りか像ででも作り、生きたそれは流罪にしてしまえ」と日本史に喧嘩を売りかねない大暴言を言い放ったという(『太平記』)。だーから生真面目な直義と喧嘩になるんだよアンタh・・・いや、当時の武士らしい合理性ともいえる。

ただし、この発言、妙吉という僧侶が、師直・師泰兄弟に冷遇されたのを恨んで、直義に讒言した物とされている。早い話が、実際に師直が発言したという証拠は無い。彼ならば言いかねないということなのだろうが。


経歴編集

高師重の子。歴史に名が現れたのは元弘3年/正慶2年(1333年)、足利高氏(後の尊氏)鎌倉幕府倒幕の兵を挙げた、その配下としてである。この時点では、あくまでも足利家の私的な執事である。

後醍醐天皇建武の新政では、師直は雑訴決断所(裁判所)職員として登用され、訴訟恩賞審議の実務経験を積んだ。また、「窪所」(鎌倉幕府の問注所と同様説と、親衛隊の名称説がある)職員にもなったという。


後醍醐天皇と足利尊氏が決裂し、尊氏が室町幕府を開くと、執事も幕府で将軍に次ぐ役職と位置付けられた。執事は後の管領に相当する職であるため政治家をイメージしたくなる。

実際、師直が決済した書状は急増している。南北朝の戦いが続く中、恩賞の素早い処理が求められた。師直は鎌倉幕府の執権を模倣し、尊氏(稀に弟の直義)の発行した書状に、自らの書状を添え、いざという時の武力行使も織り込む事で、確実に命令が実行されるようにした。この書式は執事執行状(しつじしぎょうじょう)と呼ばれる。


しかし師直の本分は戦にあった。建武2年(1335年)、尊氏と決裂した後醍醐天皇は翌年比叡山に逃れ、京都奪還の兵を出したが、師直は撃退に貢献している。室町幕府が成立すると、後醍醐天皇は吉野に逃れ、徹底抗戦の姿勢を見せた(南北朝時代)。師直は幕府軍の大将としてしばしば出陣した。建武5年/延元3年(1338年)に何度も足利勢を苦しめてきた北畠顕家石津の戦いで討ち取る。暦応4年/興国2年(1341年)、京都から逐電した塩冶高貞が幕府軍の討伐を受け自害した。師直は高貞討伐に直接の関わりはないが、『太平記』は、高貞が逐電したのは師直が高貞の妻に横恋慕して将軍兄弟に讒言したからという説を載せる(後述)。

また貞和4年/正平3年(1348年)の四條畷の戦いでは、これもたびたび幕府軍を破った楠木正行を自決に追い込んだ。そして、南朝の本拠である吉野を占領し、行宮を焼き払った。南朝方は賀名生に逃れたが、もはや室町幕府と北朝の優位は明らかに見えた。


ところが政治面では、尊氏から政治を一任された足利直義と対立。貞和5年/正平4年(1349年)にはついに対立が表面化し、『太平記』は、直義による師直暗殺未遂事件があったとしている。閏6月15日、上杉重能畠山直宗等の讒言で執事を解任される。8月13日から14日にかけて、軍勢を集めて直義を追い、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲する(御所巻)ことまでやっている。この抗争は尊氏の仲介で直義が引退・出家することで決着がつけられた。そして、直義に代わって、鎌倉に駐在していた足利義詮(尊氏の嫡子)が京都に呼び戻され、次期将軍として直義の持っていた権限を得ることになった。

しかしその後、憎き上杉重能や畠山直宗を謀殺するなど政敵を一掃した所業が命取りになる。ちなみに、妙吉の身柄も要求したが、逃げられた後だったという(洞院公賢の日記『園太暦』)。少なくとも、妙吉が直義に告げ口した事自体は、本当にあった様だ。


観応元年/正平5年(1350年)、師直は尊氏に従って、反乱を起こした直義の養子(尊氏の庶子)である足利直冬討伐に向かう。直義はこの機会に挙兵して南朝に降伏、援軍を得ると遠征途上の尊氏の軍に襲いかかった(観応の擾乱)。戦歴では尊氏や師直の方が豊富で兵力でも尊氏勢の方が優っていたが、師直憎しで団結した戦意では直義勢の方がはるかに上回り、観応2年/正平6年(1351年)2月18日、ついに打出浜の戦いにて尊氏・師直は敗れる。尊氏と直義は講和し、師直も出家を条件に助命される。しかし、養父・重能を殺された上杉能憲の手勢が怒りに燃え(実子の上杉重季説もある)帰京する師直を待ち受けていた。師直は討たれ、兄弟の高師泰や13歳の嫡子・師夏を始め一族のほとんどが皆殺しにされてしまう。


人物編集

江戸時代に作られた歌舞伎・『仮名手本忠臣蔵』では、仇役の吉良上野介義央の名前が、なぜか「高師直」になっている。いい迷惑としか言いようがない。実はこの不思議な忠臣蔵への出演に、高師直の人物像が表れている。


太平記』に描かれた師直像は、冒頭のエピソードに限らないバサラぶりである。例えば、罪を犯して所領を没収された家来に泣きつかれると、見て見ぬふりをするから幕府の命令は無視しとけと語った。狭いですゥ・・・恩賞の領地が狭いんですゥとどこぞの上院議員のように嘆いた家来には「近隣を見よ。寺社の所領が広いではないか・・・獲れ」と命じたとのこと(これも、妙吉の讒言なので、事実かどうかは疑いがある事は注意されたし)。公卿の娘たちに好色のままに子を産ませて云々ともある。確かに先述の師夏の母は関白・二条兼基の娘だと言われ師直が「盗み取った」とされる。ただし夫婦仲は良好で師夏も少年ながら人格者と評され尊氏にも可愛がられていた。


この『太平記』の記述の中に、師直が出雲隠岐守護・塩冶判官高貞(『仮名手本忠臣蔵』では、苗字を塩谷とする)の妻に横恋慕したというエピソードがある。兼好法師ラブレターを代書させるが読まずに突き返され、逆恨みした師直は、兼好法師を出入り禁止にした上で、高貞が謀叛を企てていると将軍兄弟に讒言し、高貞を死に追いやったとする内容である。

『仮名手本忠臣蔵』とは、初期の忠臣蔵作品の一種である。しかし実際の元禄赤穂事件を直接描くと江戸幕府の禁制に触れるため、わざとこの太平記のエピソードを脚色して見る人には赤穂事件の物語と分かるように舞台化したものである。塩谷高貞が浅野内匠頭(長矩)、師直が吉良上野介(義央)の役回りを演じている。

なお、吉良義央の長男・綱憲は米沢上杉家の上杉綱勝(上杉景勝の孫)の養子となったが、この米沢上杉家は、元はといえば上杉能憲(宅間上杉家)の生家・山内上杉家を長尾景虎(上杉謙信)上杉憲政から継承したものである。仇討ちと討たれる側が入れ替わったという、ちょっと面白い話である。


さて、史料を見る限り将軍たる尊氏の執事として終生武士たちの所領問題解決に献身していた師直に対して、『太平記』の描きようが事実であったかは疑わしいという見方もある(森茂暁『南北朝の動乱』)。むしろ、正義感を持った改革派政治家だったという評価もある(亀田俊和『高師直』『観応の擾乱』)。

 だが『太平記』といえば、中世・近世において広く読まれかつ文字が読めずとも講釈師によって語られた「誰もが知っている物語」であり、一冊で世間一通りの常識が身につく手引書ともなったという作品である(新田一郎『太平記の時代』)。新田も言及しているが、赤穂事件を舞台化するのにわざわざ室町時代の高師直が選ばれたことから推測すると、師直は知名度抜群の悪役として使いやすかったのであろう。太平記ならまだしも、江戸時代にまで悪役を強いられるとは、師直の嘆きが聞こえてきそうだ。


研究が進んだ現在では粗野な武人どころか(バサラはバサラだが)書や和歌にも優れた文化人にして革新的な名政治家と評されることもある。


余談編集

『園太暦』によると、高師直と最期を共にした武士の中に、鹿目(かのめ)左衛門尉・鹿目平次兵衛尉という者がいた。これが、現存する史料における鹿目氏の初出である。


『太平記』では鹿目平次左衛門という、微妙に違った名前で登場する。『園太暦』では二人の鹿目氏は切腹したと書かれているが、『太平記』では長尾三郎左衛門に騙し討ちにされている。


関連タグ編集

室町時代 南北朝時代(日本) 足利尊氏 室町幕府 執事 バサラ

佐々木道誉 師直と同じくバサラ者として有名だが、こっちは寿命を全うし現代まで家系がつながっているなど明暗が分かれた。

柄本明大河ドラマ『太平記』で高師直を演じた。

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