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藤原百川

ふじわらのももかわ

藤原百川とは奈良時代の藤原式家の公卿。藤原宇合の八男で広嗣・良継らの弟。
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概要編集

奈良時代の政治家で藤原式家出身の公卿。

藤原宇合の八男。母は久米奈保麻呂の娘。

兄弟に藤原広嗣藤原良継など。

子に藤原緒嗣など。淳和天皇の外祖父。

初名は雄田麻呂。

最高官位は従三位参議


経歴編集

藤原式家の祖・宇合の八男として天平4年(732年)に誕生。天平9年(737年)に父宇合と死別。その三年後の天平12年(740年)に長兄広嗣と四兄綱手が太宰府反乱を起こして敗れ処刑された際には連座しなかった。天平宝字3年(759年)に従五位下となり左中弁、右兵衛督、中務大輔に進む、神護景雲4年(770年)に称徳天皇崩御後の皇位継承では藤原北家藤原永手や兄の良継らと共に天智天皇の孫・白壁王(光仁天皇)を推し(一説には勅を偽造し)王を即位させ道鏡の追放にも関わった。宝亀2年(771年)に参議となり、後に式部卿を兼ねた。この頃に名前を雄田麻呂から百川へ改名したされる。道鏡が左遷先で亡くなった宝亀3年(772年)には、皇后の井上内親王や皇太子他戸親王を廃させ山部親王(桓武天皇)の立太子に大きく動いた。宝亀10年(779年)に死去。享年48歳。


和気清麻呂と親しく宇佐八幡宮神託事件で流罪になった彼を援助したと言われている。光仁天皇期では永手や吉備真備をも凌ぐやり手の政治家だったが謀略家でもあり称徳帝の崩御後、道鏡の失脚・井上皇后と他戸皇太子の廃位さらに井上母子の死に関与していたとされる。井上母子の死後、兄の良継や弟の蔵下麻呂が亡くなりその後自身も亡くなったが井上母子の祟りと言われた。


百川は式家を一時的に興隆させたが、跡を継いだ緖嗣は北家の藤原冬嗣に遅れを取り、以後百川の系統が表舞台に立つことは無かった。式家自体は三兄清成の子である種継の系統が中心となったが種継の子である仲成薬子が「薬子の変」を起こしたことで家はさらに衰退し没落した。


外部リンク編集

藤原百川 - Wikipedia


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公家 藤原式家 奈良時代

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