概要
大宰少弐藤原広嗣が政治に不満を持ち大宰府で挙兵したが朝廷軍よって鎮圧された。
戦乱
藤原四兄弟の死後、右大臣橘諸兄が政治をすることになった。さらに唐から帰国した玄昉・吉備真備は聖武天皇から信頼を受け政治に関わることになり藤原氏の勢力が一時的に衰退した。広嗣は大和守から大宰少弐となるもこれには広嗣は朝廷に不満を持った。
天平12年(740年)に広嗣は玄昉と吉備真備を除くように上奏文を朝廷に送った。天皇はこの文を反乱の意と受け取り乱の鎮圧のため大野東人を大将軍として現地へ派遣させた。さらに勅使佐伯常人と阿部虫麻呂も東人と共に派遣された。
朝廷軍は長門国から豊前国へ渡り豊前の広嗣の兵と戦い、広嗣の兵士は朝廷に降伏、そして板櫃川で広嗣の本軍と衝突、最終的に広嗣は朝廷軍に敗れ舟を出して逃亡するが強風に煽られ肥前国値嘉島まで押し戻された。島内に潜伏をしていたが安倍黒麻呂に捕らえられ、肥前国で弟綱手と共に処刑された。
乱後
広嗣含む藤原式家の人物も処罰された。反乱の影響で数年間大宰府は使用されなかった。天皇も平城京をおおよそ5年間離れた。