橘諸兄
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たちばなのもろえ
橘諸兄とは奈良時代の公卿。橘氏の初代。
736(天平8)年に母の「橘」姓を賜わり臣籍降下し、それ以降「橘諸兄」と名乗る。
翌9年に天然痘が大流行し、当時の政治首班だった藤原四兄弟などが次々と病死し、同年9月の時点で主な公卿が当時従三位参議だった鈴鹿王と諸兄の2人のみとなってしまった。そこで鈴鹿王が名目上の首班となる知太政官事に、諸兄が大納言に任命されて体制を整え、738(天平10)年に正三位右大臣になる。さらに翌11年に従二位に進んだことで鈴鹿王を越し、名実ともに首班の座に座った。
聖武天皇から信任を受け政治を行い740(天平12)年の恭仁京造営にも関わった。
743(天平15)年に左大臣に進み墾田永年私財法を施行した。
天平感宝元年(749年)に生前叙位者としては史上3人目となる正一位に進むが、光明皇太后に信任を受けた藤原仲麻呂に勢力を抑えてられて衰退、さらに天平勝宝8歳(756年)に上皇に対して無礼な発言をしたという疑いを掛けられ政務を引退した。
757年1月に死去。同年7月に息子の奈良麻呂が政変を起こし獄中死する。その後橘氏は60年近く不遇の期間を送ることになる。
母の三千代は後に藤原不比等と再婚し光明子(のちの光明皇后)と諸兄の正室となる藤原多比能を生む。
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