敏達天皇の後裔とされる葛城王が、橘宿禰(後に橘朝臣)の姓氏を賜って臣籍降下し、初代の橘諸兄となる。諸兄は左大臣となって聖武天皇の政権を主導した。しかしその息子の橘奈良麻呂は政争に敗れて反乱を起こして敗死し、衰退。平安時代に入って、その孫の橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となって仁明天皇を生むと、外戚にあたる弟の橘氏公が右大臣となり、三筆に数えられる能書の橘逸勢が出るなど再び繁栄する。しかしその後は、藤原北家摂関家繁栄の陰で衰退していった。ついに室町時代には、殿上人となれる堂上家の公家は全て断絶してしまった。以後は、地下家の公家として数家が朝廷に仕え、明治維新に至っている。
名門貴族の代名詞・源平藤橘と呼ばれるが、公家の大多数を占める藤原氏はもちろん、将軍位を独占した源氏や、武家政権の創始者平清盛や鎌倉幕府執権を輩出した平氏に比べても影が薄い。嫡流が衰退してしまった上に、活躍していたのが古代すぎるからかもしれない。中世では楠木正成が橘氏の嫡流の血筋であったともいうが、あくまでも伝説である。とはいえ、仁明天皇の子孫は現在の皇室につながり、摂関家の初代藤原良房が出世できたのも嘉智子皇太后の信任あってのことであった。やはり名門貴族は名門貴族なのである。
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