藤原永手
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ふじわらのながて
藤原永手とは奈良時代の公卿。
聖武天皇朝では、1歳下の同母弟・八束(後の真楯)との出世争いで一歩遅れを取っていたが(公卿になるのに6年遅れをとった)、孝謙天皇朝では南家の藤原仲麻呂の信任を得て、754(天平勝宝6)年に従三位に昇進し公卿となった。
その後孝謙天皇の皇嗣をめぐって仲麻呂と意見をたがえたことから次第に疎遠となり、764(天平宝字8)年の仲麻呂の叛乱では孝謙上皇側についたことにより、乱後に正三位・大納言へ、翌765年正月には従二位と昇進している。
さらに仲麻呂の敗死後に政権首班となった藤原豊成が同年に没したことで公卿の首座となり、翌766年正月に右大臣、10月に左大臣へと進んだが、称徳天皇・道鏡政権内で藤原氏と道鏡の関係者による政治バランスに苦慮することとなった。
称徳天皇崩御後に、式家の良継と百川と共に白壁王を擁立(光仁天皇)しその功により正一位に進む。
死後長男の家依が従三位参議まで進むものの若死にし、真楯の後裔が摂関家として栄華を極めた一方で没落することとなる。
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