真如
しんにょ
799(延暦18)年~865(貞観7)年。俗名・高丘親王(高岳親王ともいう)。
なお、仏教用語としての真如には「真理」の意味も有る。
誕生~出家まで
51代・平城天皇の第三皇子として出生、809(大同4)年に父帝が譲位し、叔父の嵯峨天皇が即位したとき、皇太子に立てられたが、翌年勃発した「薬子の変」の影響で皇太子を廃されてしまう。このとき、高丘親王に代わり皇太子に立てられたのが、嵯峨天皇の弟で、後の淳和天皇となる大伴親王である。
薬子の変ののち平城上皇は出家するが、高丘親王もまた出家し、真如と名乗る。
真如はやがて弘法大師空海の直弟子になり、弘法十大弟子の一員に数えられるまでになった。
東大寺大仏の修理に立ち会う
空海の入滅後、855(斉衡2)年に発生した地震の影響で東大寺の大仏の頭が落下する事故が発生。
真如はその修復工事の最高責任者である東大寺大仏司検校に任命され、7年の歳月を経て工事を完了させ、861(貞観3)年に開眼法要を厳修した。
入唐、そして・・・
63歳になっていた真如は、密教を徹底的に極めつくすべく入唐を決意、宗叡ら22人を連れて奈良より九州に入り、翌862(貞観4)年に大宰府を出帆して現在の寧波に到着する。
のちに宗叡らと別行動を取り、864(貞観6)年に長安に到着、在唐30余年になる留学僧・円載の手配により西明寺に迎えられる。しかし、当時の唐は時の皇帝・武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったことから、真如は長安で優れた師を得られなかった。
そこで密教の神髄を得るために、真如はインド(天竺)を目指すことになる。
865(貞観7)年、皇帝の勅許を得て従者3人とともに広州より海路、インドを目指し出発した真如だったが、その途中、マラヤ半島南端部・羅越国(現ジョホールバル)で入寂する。
病死とされているが、マレートラの群れに襲われ絶命したとも伝えられる。後者の虎害説によると、
「彼等が極度の空腹状態だったことを悟った真如は、自らの身体を食べさせる捨身に出ることにした。真如を食ったトラは、まるでその身に真如が化体したかのように、一路、インドを目指し走り去った」
という。