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概要

長野県安曇野地域の伝承に登場する伝説上の盗賊団。
文献によっては八面鬼士大王魏石鬼義死鬼魏石鬼八面大王とも記される。

安曇野の豪族である仁科氏の家臣・4代目田村守宮によって討伐された。

来歴

『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』によると、神護景雲末(767~770年)から宝亀年間(770~780年)にかけて、安曇野一体で民家や蔵から雑穀や財宝が盗まれる事件が相次いだ。
宝亀8年(777年)の秋に調べたところ、顔を色とりどりに塗った八面鬼士大王と称する8人を首領とした (ねずみ)という盗賊団の仕業で、有明山の麓に棲み家を見つけた。
そこで安曇野の豪族である仁科和泉守は、朝廷に討伐の宣旨を求めるために、長岡京へ家臣の等々力玄蕃亮(3代目田村守宮)を遣わせた。
延暦8年(789年)2月23日、朝廷より討伐の宣旨が下ったため、等々力玄蕃亮の子・4代目田村守宮が八面鬼士大王を討伐した。

物語の中の八面大王

現在、一般的に広く知られている八面大王の伝承は、前述の『仁科濫觴記』を底本として成立した『信府統記(しんぷとうき)』に基づいた話である。
中房山という所に棲む魏石鬼八面大王を称するが人々を悩ませたが、八面大王の討伐を命じられた田村利仁将軍が、大同元年(806年)に兵を率いて八面大王をうち破った。

よくある誤解

『信府統記』は後世に田村語りが取り込まれたことで、伝説上の人物・田村利仁将軍によって討伐されたという物語へと改変され、八面大王は鬼として広まった。
このことから近年では、まつろわぬ民として大和朝廷に反旗を翻した歴史が、勝者によって書き換えられたなどとする俗説陰謀論が広まっているが、もともと坂上田村麻呂伝説とは無縁な話である

⇒詳細は後述史実性の議論を参照

紅葉伝説

魏石鬼八面大王の妻がもみじ鬼神で、2人の間に産まれたのが金太郎であるとの伝承も残る。
もみじ鬼神は夫である中房山の八面大王と夫婦喧嘩をして飛び出し、潮沢の物見岩に住み着いて八面大王と同じくらい悪事を働いたという。

おそらくは『信府統記』から派生した伝承である。

史実性の議論

八面大王の復権運動

近年では、坂上田村麻呂蝦夷征討の道中に立ち寄った安曇野の人々に食料などを貢がせ、それを見かねた八面大王が立ち上がったとして八面大王は英雄視されている。
また、大和朝廷にまつろわぬ民として虐げられた大王で、実はこの地域を治めた大王であるなど八面大王=善、田村麻呂=悪とする形で名誉が復権されている。

このように八面大王の伝承は、大和朝廷によって反逆者として扱われた敗者の歴史として地元の人々に受け取られたが、これは史実ではない。

『仁科濫觴記』と『信府統記』

信濃国安曇平で最も古いと考えられ、かつ信憑性の高い記録とされる『仁科濫觴記』では、4代目田村守宮が八面鬼士大王を討伐したと記している。
『仁科濫觴記』はお伽話的要素を含まず、実見したように詳細で、歴史的整合性があり、部分的に典拠も示されていることを特徴とする。
その内容は具体的であり、事件の当事者もしくは近辺の者による史実を反映した記述の可能性がある。

一方で享保7年(1722年)に松本藩主・水野忠恒の命で作成され、享保9年(1724年)に完成した『信府統記』では、田村利仁将軍が討伐したと記している。
『信府統記』での内容は伝聞調で書かれ、お伽草子的な側面を含んでいる記述となる。
また田村麻呂は延暦20年(801年)以降に蝦夷征討に出征した事実がなく、史実としての信頼性を疑わせる。

田村利仁将軍と坂上田村麻呂

では『信府統記』で八面大王を討伐したという田村利仁将軍とは何者なのか。
答えは江戸時代東北地方で語られた奥浄瑠璃『田村三代記』に登場する伝説上の人物・坂上田村丸利仁であり、歴史上の人物・坂上田村麻呂と藤原利仁が史実からかけ離れた田村語りで融合した架空の人物である。

本来は八面鬼士大王を討伐したはずの田村守宮が、江戸時代の東北地方で坂上田村麻呂伝説が広まるにつれ、安曇野地域の伝説でも田村利仁将軍による八面大王を討伐した物語に改変、創出された。

伝承の史実性

新たに物語を改変、創出したという具体例をひとつ挙げると、松本市の筑摩神社では「坂上田村麻呂が岩清水八幡宮を勧進して八面大王を討伐し、境内にその首を埋葬した」という由緒が語られる。
しかし田村麻呂の没年は弘仁2年(811年)であり、岩清水八幡宮が創建されたのは貞観元年(859年)と田村麻呂の死から約50年後となる。
田村麻呂が岩清水八幡宮を勧進して筑摩神社を創建するのは時系列的に不可能である。

『信府統記』で田村守宮から架空の人物・田村利仁将軍による討伐へと書き換えられ、この伝承が繰り返し語られているうちに田村利仁将軍から歴史上の人物・坂上田村麻呂へと書き換えが進んで、筑摩神社が新たに創出された坂上田村麻呂伝説を由来として取り込んだと考えられる。

田村麻呂は信州へ赴いたのか

『信府統記』では、大同元年(806年)に兵を率いて八面大王をうち破ったとしている。
しかし田村麻呂の出征は延暦20年(801年)が最後であり、徳政相論により第4次蝦夷征討と平安京造営が中止されたため、『信府統記』にある大同元年に田村麻呂が陸奥国へと出征したという歴史的事実がそもそもない。

善悪の基準

『田村三代記』などの物語に影響を受けて『信府統記』が成立したことについては黙認しつつ、一方では八面大王は大和朝廷によって破れた歴史が反映されていることを前提にして、史実であるかのように流布されている。
この根底には左派による特定のイデオロギーなどさまざまな要因もあるが、史実と伝説を混同している現状は田村麻呂に対しての一方的な風評被害と言わざるを得ない。

史実として考える場合は、仁科氏による盗賊討伐という側面を考えるべきである。

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魏石鬼八面大王

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