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概要編集

平安時代征夷大将軍としても高名な大納言坂上田村麻呂京都府京都市左京区にある鞍馬寺に奉納したと伝えられる儀仗用大刀直刀)。文化庁は訓み方を「こくしつけん」としている。

鞍馬寺の縁起・由緒を綴った『鞍馬蓋寺漢文縁起』には黒漆剣および坂上田村麻呂に関する記録が一切みられず、同寺では「鞍馬寺に坂上田村麻呂が戦勝祈願に訪れ、無事に凱旋した時に奉納した大刀」とだけ口承でのみ伝わっている。


なお現代の刀剣用語では両刃で左右相称形の武器を指して「剣」とするが、黒漆剣は片刃の直刀である。また種類は平安時代中期以降に登場する反りのある湾刀を指す「刀」ではなく、上古刀にみられる片刃の直刀を指す「刀」の表記が用いられる。


明治44年(1911年)4月17日に古社寺保存法に基づく国宝(いわゆる旧国宝)に指定さている。昭和25年(1950年)5月30日の文化財保護法施行後は重要文化財に指定されている。指定名称は「黒漆剣/〈(寺伝坂上田村麻呂佩剣)〉」。現在まで同寺が所蔵する。


作風編集

刀身は刃長76.6cm、元幅2.6cm、先幅1.8cm。無銘。切刃造の大刀で、地鉄もよく練れ大板目流れ、刃紋は直刃で小乱れ交じり小沸きつく。先はわずかに内反りをしている。


外装は「黒漆大刀拵」が残されている。拵は全長94.0cm。柄木は麻布で包まれた上から黒漆を施し、鞘は薄い革で包んだ上から同様に黒漆を施している。金具(足金物、責金、石突)は金銅製。帯執りの足金物は「山形」と称される形態で、石突(鞘尻)より10cmほど筒金を嵌めて鞘を保護している。縁と鞘口の金具は欠失している。鐔は小型の鉄製で楕円形をなし木瓜形の透鐔をかけ、正倉院宝物の黒作大刀に多く用いられている鐔と相似する。石突の金物を二重仕立てにする点と、鐔に透かしを入れる点が特色である。


黒漆剣の形式は正倉院に伝来する奈良時代金銅鈿荘大刀の遺制を強く残しているが、細部の意匠や技法は平安時代前期の様式に属する。一方では春日大社に伝来する平安時代中期の金地螺鈿毛抜形太刀に比べるとやや古式である。

このことから平安時代中期のものよりは奈良時代のものに近く、平安時代前期を下らないものと推測されており、坂上田村麻呂とも時代的に符号する。また被葬者として坂上田村麻呂墓説が裏付けられている山科西野山古墳出土品のうち金装大刀残闕 1口(附 帯執革飾金具4箇)と大変似通っている。


異説編集

蕨手刀への対抗説編集

坂上田村麻呂が蝦夷(エミシ)の蕨手刀に対抗するために作らせたのが黒漆剣であるとの俗説が広まっているが、それを裏付ける史料はなく、田村麻呂が蝦夷の蕨手刀に対抗するために作らせたというデマだけが一人歩きしている。


黒漆剣は最上位に位置する木柄の大刀であり、同時代の一級品とされる金装大刀とも装飾の形式が相似していることから、黒漆剣は儀礼用の大刀として身分の高いものが帯刀する大刀であったことがうかがえる。

一方では、大刀の帯刀が許されていない身分の低いものは横刀(たち)を帯刀していた。横刀の種類として蕨手刀や立鼓柄の方頭大刀が挙げられる。蕨手刀は信濃国(現在の長野県)で発祥したとみられ、古代日本の律令国家(朝廷)の東北進出とともに俘囚(律令国家に帰属した蝦夷)や狩猟を中心とする蝦夷に伝えられたことで、交易品として蝦夷に好まれ、陸奥国で製造されるようになってから改良されていった。

また蕨手刀に比べて刃長が長く、威信財としての色合いも強い、蕨手刀よりも上位に位置付けられた方頭大刀は、形状の顕著な地域主義がみられないため国家レベルの規格が定められていた。


刀剣同士の戦いでは刃長の長い方が優位であり、騎馬になるとその優位性はより顕著である。そのため蕨手刀の上位に位置付けられる国家規格の方頭大刀を持つ律令国家が、わざわざ刃長の短い蕨手刀に対抗する必要性はない。それ以前の話として、蝦夷と律令国家の下級兵士は共に蕨手刀を使用している以上、蕨手刀に対抗という意味自体が不明瞭である。三十八年騒乱における戦闘は蕨手刀同士の戦いであった可能性が指摘されている。

付け加えると、この俗説の出所は歴史小説などによって蕨手刀は蝦夷の刀であるかのように表現されていることだろう。そのイメージから田村麻呂が蝦夷の蕨手刀に対抗するために黒漆剣を作らせたという俗説が流布したものと考えられる。しかし文献史学や考古学から蕨手刀は必ずしも蝦夷の独占物ではなく、律令国家から蝦夷への伝来ルートが判明した現在では蕨手刀への対抗説も完全に否定されている。


ソハヤノツルギとの同一視編集

黒漆剣はソハヤノツルギ(ソハヤ、ソハヤの剣、ソハヤ丸など名称は様々)と称されるとの俗説も広まっている。しかし概要にあるとおり「鞍馬寺に坂上田村麻呂が戦勝祈願に訪れ、無事に凱旋した時に奉納した大刀」との口承に留まり、黒漆剣がソハヤノツルギと称される文献が提示されずにデマだけが一人歩きしている。


ソハヤノツルギは坂上田村麻呂の佩用刀を指して称されるのではなく、田村語り並びに坂上田村麻呂伝説に登場する伝承上の人物・坂上田村丸聖剣がソハヤノツルギである。

御伽草子『田村の草子』や奥浄瑠璃『田村三代記』の中で鈴鹿山大嶽丸を斬った物語が仮託された大刀として、『播磨清水寺文書』『播磨鑑』でその旨が記録されている騒速が挙げられる(所蔵する播州清水寺には騒速を含む三口の大刀があり、いずれが騒速とされる大刀かまでは判明していない)。

しかし黒漆剣については鈴鹿山の大嶽丸を斬ったなど『田村の草子』『田村三代記』の物語が仮託されていた根拠となる史料や形跡が一切確認されていないことから俗説の域を出ない。黒漆剣をソハヤノツルギとして扱わないように注意が必要である。


坂家宝剣との同一視編集

また、黒漆剣と坂家宝剣を同一視する俗説もある。


坂上宝剣は『公衡公記』「昭訓門院御産愚記」の記録から、刀身に金象嵌の銘文が刻まれていたことが判明している。この銘文が坂家宝剣の実在性を証明するものであるため、黒漆剣に刀身に坂家宝剣を示す銘文が刻まれていないことから、黒漆剣が坂家宝剣ではないことが解る。

同時に、雷が鳴ると鞘走るという逸話も坂家宝剣について記された説話であるため、黒漆剣が雷が鳴ると鞘走るという逸話ではない。


妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリの本歌説編集

久能山東照宮妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ本歌として黒漆剣が紹介される事もあるが、上記のソハヤノツルギとの同一視にあるとおり、黒漆剣はソハヤノツルギではない。


おそらく黒漆剣が旧国宝に指定されたのが妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリと同日で、徳川家康の命日でもあることから本歌であると考えられたのだろうか。そもそも熱田神宮だけでも短刀 銘来国俊、太刀 銘則国、太刀 銘宗吉作、太刀 銘備州長船兼光、脇差 銘長谷部国信の5口が、刀剣以外も含めると短刀 表ニ三島大明神他人不与之 裏ニ貞治三年藤原友行ノ銘アリ、吉備津神社南随神門、浅草寺本堂並びに五重塔なども同日に指定されている。

黒漆剣が家康の命日や、妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリと同日付けで旧国宝に指定されたのはただの偶然である。


関連タグ編集

刀剣

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