概要
方頭大刀は、柄頭が分銅形や鋲頭形、方形の大刀。刃長の短いものは方頭刀と表記される。刀剣界の分類では上古刀〜古刀まで幅広く含まれる。
7世紀に入って姿を消した環頭大刀や倭風装飾付大刀に替わって木柄の方頭大刀が主流となり、7世紀末〜8世紀初めに木柄刀、方頭共鉄柄刀、唐様大刀、鋒両刃刀の4種類の方頭大刀が出揃い、同時期には非方頭の蕨手刀も出現している。湾刀化の過程は共鉄柄系統が先行して木柄系統が遅れ、鎬造りや庵棟の過程は木柄系統が先行して共鉄柄系統が遅れる。
2010年頃より考古学の編年研究において変遷過程が詳細に明かされた。それによると奈良時代〜平安時代初め頃までは直刀であったが、平安時代中頃には刀種によって時期に差はあるものの刀身に反りのつくものが現れる。7世紀〜12世紀まで4種の方頭大刀や方頭刀が継続しながら、木柄刀と方頭共鉄柄刀が兵仗として併存するが、12世紀から13世紀にかけて方頭共鉄柄刀から発展した毛抜形太刀が兵仗として衰退して木柄刀へと収斂したことで13世紀以降の日本刀に続いていくと考えられている。
歴史
木柄刀
木柄刀(もくへいとう)は、茎を2枚合わせの板で包んで柄とする刀。鉄板鐔付鉄刀の系譜とみられている。方頭木柄刀、木柄方頭刀と表記されることもある。
7世紀から共通の型式を具えた木柄の方頭大刀が全国的に展開している。方形の柄頭、足金具、鞘尻金具、喰出鐔など刀装具が唐の横刀と共通するため、唐の兵士が佩用した兵仗や儀仗としての要素を日本の律令国家が導入・整備したものと考えられている。7世紀後半〜8世紀中葉の出土木柄大刀に鎬造りが認められ、9世紀〜11世紀にかけて鎬造りの木柄刀が徐々に多くなり、12世紀になると明瞭な鎬造りとなる。
東北北部で8世紀前半、それより南の地域で10世紀前半に柄反りを持つ木柄刀が現れ、11世紀中葉以降に刀身に腰反りをもつ木柄刀が現れる。
静岡県小國神社経塚から出土した12世紀半ばの木柄太刀は鎬造り、庵棟の湾刀で、刀身が芯鉄と皮鉄に層状剥離していることから木柄刀が日本刀のような造り込みで製作された兵仗として発展したことがうかがえる。これら12世紀の腰反りをもつ木柄刀は日本刀でいう太刀として捉えられている。
12世紀の刀身に13世紀の刀装を持つ春日大社御神宝「沃懸地獅子文毛抜形太刀」は毛抜形太刀と呼称されるが、透かしの入る共鉄柄ではなく、毛抜形の大目貫を据えた木柄である。平安時代後期から鎌倉時代にかけて神宝が毛抜形太刀から兵仗の湾刀としての木柄太刀に変遷している。鎌倉時代以降は兵仗である日本刀が神宝として奉納されていることから、12世紀〜13世紀にかけて兵仗としての毛抜形太刀が衰退、兵仗の刀が木柄刀へと収斂して13世紀以降の木柄の日本刀に続いたと考えられる。
方頭共鉄柄刀
方頭共鉄柄刀(ほうとうともがねづかとう)は、方頭覆輪式の柄頭や柄に絞りがあることから木柄刀から派生したと考えられている方頭大刀。柄に絞りがある方頭共鉄柄刀は立鼓柄刀(りゅうこづかとう)と呼称される。
7世紀末〜8世紀初頭の群馬県や長野県など、蕨手刀と同じような地域・時期に出現した地方出自の刀とみらている。東北北部で8世紀中葉以降に柄反りを持つ方頭共鉄柄刀が現れ、9世紀後半〜10世紀前葉には刀身にも反りが見られる。この頃、柄に長方形の透かしが入って柄と刀身に反りの見られる毛抜形刀に変化・発展すると、10世紀後半に柄から刀身全体に反りがつく毛抜形太刀に変化する。
前述の通り12世紀〜13世紀にかけて兵仗としての毛抜形太刀が衰退すると、儀仗としての毛抜形太刀が近世まで続いた。
唐様大刀
唐様大刀(からようたち)は、唐の刀制を一部導入したとされる装飾付大刀。柄は方頭で、柄頭と鞘尻には心葉形などの金具が装着され、唐鐔、山形金の付いた足金物などに特徴がある。
奈良時代には烏装大刀(黒作大刀)と共に儀礼に用いられたと考えられている。唐様大刀は兵仗として発展せず、儀仗として平安後期には飾剣へと変化する。
鋒両刃刀
鋒両刃刀(きっさきもろはとう)は、鋒部分が剣のように両刃造りとなっている刀。木柄刀、唐様大刀、方頭共鉄柄刀、蕨手刀にもみられる。
7世紀末〜8世紀初頭頃より認められる。7世紀末〜9世紀のものは鋒の両刃長が比較的短く、10〜11世紀には両刃長が長くなる。御物「小烏丸」の時期は両刃長からみて11世紀後葉以降と判断されている。