概要
毛抜形太刀は、方頭大刀のうち共鉄造の方頭共鉄柄刀から変形・発生した毛抜形刀がさらに型式変化して出現した太刀。衛府太刀(えふのたち)とも。
出現時期は毛抜形刀に続く10世紀後半と考えられており、毛抜形刀との違いは刀身の長さ、反り、柄の装飾性、透かしの形などにある。
毛抜形太刀は装飾性がより高められ、衛府の官人の兵仗や儀仗となり、神宝として奉納されるなど平安時代後期に盛行して全国に分布したと指摘される。
共鉄柄は方頭ないし方頭下隅を切り欠いたような形をしており、毛抜形の透かしが入ることから毛抜形太刀の名で呼ばれる。
柄から刀身全体に反りがつき、日本刀の腰反り風の刀姿をしている。刀身の長さは60cmを超えて70cm以上のものもある。鎬造りのものが大多数ではあるが、平造りのものも一部では現存している。
俗説
俘囚野剣
Wikipedia日本語版の「毛抜形太刀」のページにおいて、2011年3月30日 (水) 05:29の編集で『白河上皇高野御幸記(高野行幸記)』の中で「俘囚野剣」とも呼ばれた旨が追記されている。おそらく福永酔剣『日本刀大百科事典』(雄山閣出版、1993年11月)が俘囚剣として「白河法皇が天治元年(一二二四)十月、紀州の高野山へ行幸のさい、左衛門督藤原朝臣がこれを帯びていたので、人々に奇異の感を抱かせたといいます」と紹介したことで広まった話と思われる。
しかし原本である高野山西南院所蔵『寛治二年白河上皇高野御幸記』には「俘囚野剣」という語そのものが登場していないことから、毛抜形太刀を指して俘囚野剣と呼ばれていた事実は確認出来ないことから俗説であるものと考えられている。