概要
鎌倉時代中期に活躍した長船派の祖とされる刀工光忠作と伝えられる刀。
燭台切の名は伊達政宗がこの刀で家臣を斬った勢いで、そばにあった青銅の燭台も共に切れたという逸話が由来である。
伊達政宗が所有し、水戸徳川家からのたっての願いにより徳川頼房あるいは徳川光圀に献上されたとされ、関東大震災により失われたとされてきた。
関東大震災で姿を消してから再発見へ*
関東大震災で被災し、現存しないと思われてきたが、2015年4月30日、「徳川ミュージアムのブログ」で焼刀の状態で博物館に保管されていることが判明。
燭台切光忠現存の報は大いに話題となり徳川ミュージアムへの問い合わせが相次いだことから、改めて博物館側が関連資料等に照らし合わせたところ、その保管されていた場所と刀身の長さなどが一致したため2015年05月14日にこの刀が間違いなく燭台切光忠であると確認された。
その後、05月17日の国際博物館の日に合わせて1日限定で特別に公開された。
一振の刀が、再度表舞台に立った歴史的な瞬間であった。
ガラスケース無しの至近距離で展示された燭台切光忠は、刀身が黒くなっており茎には溶解した金のはばきが付いているが、メッキではなく純金である。
また、関東大震災で隣にあった御殿は燃えてしまったが、燭台切光忠の保管されていた宝物蔵は無事であったものの、宝物の様子を心配した管理人が扉を開けてしまったことで発生したバックドラフトによる高温下での蒸し焼けになったこと、保管されていた場所から刀を特定できたこと、扉を開けた方はその爆発により亡くなられたこと、などの事実が語られた。
長らく失われたと思われていた理由としては、関東大震災で被災した宝刀の中に燭台切光忠が入っていたこと、そのため焼失したと思われていたためであり、徳川ミュージアムで大切に保存されていた。
名刀を文化財として守り伝え、伝統技術を受け継ぐ観点から燭台切光忠の写しを制作する「刀剣プロジェクト」が徳川ミュージアムから発表されたが、写しを制作するにあたって刀剣調査が行われたところ、「光忠」の「光」という銘が残っていることが確認された。
また、「光忠」は華麗な作風として知られるが「益荒男ぶり」と「手弱女ぶり」の二つの作風があり、「燭台切光忠」は「光忠」の中でも優しい姿の「手弱女ぶり」の刀であると評価されている。
余談
今は焼けてしまったため刃文も失われたが、水戸徳川家の名刀を記録した「武庫刀纂」に描かれた当時の押形を見ると「丁子の花びらのような」華やかな刃文であったことがわかる。
刃文と同様に映りも乱れる、鎌倉時代の刀に多く見られる「乱れ映り」と呼ばれる美しい地紋をしていた。
数多くの名刀を目にしてきた高瀬羽皐翁は、著書『英雄と佩刀』の中で、お手入れの際に直に見た燭台切光忠を「言語に絶した名刀である」と絶賛している。
燭台切光忠と姓名が付く人物・キャラクター
- 上記の刀剣をモチーフとした、刀剣乱舞に登場する刀剣男士。→燭台切光忠(刀剣乱舞)
- 同じく上記の刀剣をモチーフとした、天華百剣に登場する巫剣。→燭台切光忠(天華百剣)