概要
日本の奈良時代末期から平安時代初期にかけて活躍した古代東北地方、蝦夷の族長。モレと呼ばれることが多い。
延暦21年4月15日(ユリウス暦802年5月19日)、盤具公母禮は大墓公阿弖利爲とともに、種類500余人を率いて造胆沢城使・坂上田村麻呂の下に降伏した。盤具公母禮の名前が史料にはじめてみえ、蝦夷の族長であったと思われるが、盤具公氏がどこを本拠地としていたかなどは不明である。
延暦21年7月10日(ユリウス暦802年8月11日)、坂上田村麻呂にともなわれて大墓公阿弖利爲とともに平安京へと向かう。ただし「田村麻呂来たる」とのみあることから、平安京に「入京」したとは考えられていない。
延暦21年8月13日(ユリウス暦802年9月17日)、坂上田村麻呂は「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と申したが、公卿は執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と申し、公卿の意見が取り入れられたため捉えられ、盤具公母禮と大墓公阿弖利爲は河内国椙山(現・枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、太子町、河南町、千早赤阪村、大阪市の一部、堺市の一部のどこか)で斬られた(斬られたという史料の記述が、処刑とは限らないとする見方もある)。