概要
史実性の議論
出自
戦国時代、陸奥国の戦国大名・田村清顕の一人娘で、伊達政宗の正室となった愛姫の実家は、大納言・坂上田村麻呂の子孫を称した田村氏として歴史ファンの間で有名である。
時を同じくして、戦国時代の武士に田村麻呂の子孫を称した将種・坂上氏の34代目山本荘司・坂上頼泰という人物がいた。頼泰は多田院御家人として室町幕府13代征夷大将軍・足利義輝に仕えていたが、同じ多田院御家人で、中世以降は御家人衆の筆頭的立場にあった塩川伯耆守が織田信長に降ると、坂上氏の本拠地である山本荘は塩川氏に攻められて領下となり、紆余曲折を経て隠居した頼泰は、庄屋となって酒造などを営みながら余生を過ごし、山本荘司家としての坂上氏は衰微した。この頼泰から遡ること3代目山本荘司が卜部季武のモデルともされる浦辺太郎坂上季猛である。
来歴
山本荘司家は、摂津守となった源満仲が摂津国多田に多田院を設けたとき、全国30ヵ所以上に散在していた坂上党武家団の力を必要とし、坂上党の棟梁で山城国愛宕郡八坂郷に住む検非違使従五位上明法博士右衛門大尉坂上頼次に参画を求めたことに始まる。これを承諾した頼次が満仲から摂津介に任命されると、藤原保昌が住んだことで有名な摂津国平井に隣接する山本荘(現在の宝塚市)に坂上党から選りすぐった強者を配した。これを「坂上本家十二流」(金岡、浦辺、辻、柏葉、桧隈、田村、泉、左、玉造、山本、東、安潟)という。以来、坂上氏は山本荘を本拠地として西政所、南政所、東政所を統括して清和源氏の本拠地である多田荘を警衛した。
初代山本荘司となった頼次は、和泉国高師の浦に住んでいた浦辺七良坂上季長を山本荘に呼び寄せて、清和源氏の家臣団に坂上氏が家風としていた弓馬などの武芸の指導をさせると、季長に後を託して山城国へと帰った。その後は浦辺坂上氏によって山本荘司職が代々継承され、季長の子・浦辺太郎坂上季猛が坂上党武家団の棟梁を継ぐと、3代目山本荘司として源頼光に仕えた。
季猛は坂上氏の中祖である田村麻呂の遺品などを御神体として松尾丸社(本宮田村将軍宮、若宮殿松尾丸大明神、五丈殿、弓場殿、刈田宮、田村公御鎧畠、弓洗池)を設け、その北畔の荘司屋敷を中心に武家屋敷が軒を並べた。現在、この神社では季猛を渡辺綱を筆頭とする頼光四天王の一人としている。他にも『浦辺観世音尊像日記』(蝸牛廬文庫)などに季猛の名が残されている。
後世
『地下家伝』によると、今出川家諸大夫山本家の祖先は田村麻呂から7代後裔の頼次として、頼次から16代後裔の坂上尚親が先祖の武功によって仁平年間(1151 - 1153年)に平姓を賜ったことで平尚親を名乗っている。尚親の後は平家正が今出川家諸大夫となった時に山本家正を名乗ると、孫の山本家勝の系統から山本親臣が従三位まで昇格するなど、地下家としての山本氏は江戸時代末期まで続いた。
一方、家勝の弟・山本長勝は坂上氏に復姓して坂上長勝を名乗り、長勝の子・坂上宗兼は町口宗兼を名乗るも町口氏は没落して断絶した。この町口家の家督を宗兼から相続したのは播州多田神官家山本坂上乗祐の子である坂上伊貞(町口伊貞)であった。伊貞は楚葉矢の御剣を田村神社に奉納するなど、神影を再興するために尽力した。
江戸時代中期に多田満仲(源満仲)の後裔を称した多田義俊は、浮世草子作者・多田南嶺としても知られ、南嶺名義の紀行文『宮川日記』の付録にある天津和尚から火打ち石を貰った話の中で「浦辺季猛の子孫は摂津国山本で坂上党を号した」と記し、天津和尚はその山本坂上氏の人であるとしている。
伊丹で創業した銘酒「剣菱」を稲寺屋から受け継いだ大鹿村の津国屋勘三郎は本名を坂上桐蔭といい、津国屋勘三郎の養子となって津国屋善五郎を名乗った江戸時代中期の読本作家・伊丹椿園も本名を坂上善五郎といった。椿園の実家となる大鹿屋も坂上氏で、浦辺氏や山本氏も名乗っている。また実父である大鹿屋の坂上伊兵衛は俳諧師・坂上蜂房であった。
天津和尚の出身と考えられる山本坂上氏は池田で酒造業を営んで文化人と交流を持った山本屋弥右衛門家で、坂上稲丸も当主を勤めた。
従来は説話研究などから卜部季武の実像が検証されてきたため、多田院御家人に始まる山本坂上氏から研究されることはほとんどなかった。宝塚などの寺社の縁起を地方伝承として差し引いても、
- 多田院御家人に34代続いた山本荘司家がいて、
- 2代目以降の山本荘司職は浦辺坂上氏が引き継ぎ、
- その3代目が浦辺太郎坂上季猛であり、
- 季猛は満仲や頼光に仕えていた
ことは、説話にみられる卜部季武の実像を探る上で一概に無視できない。
この山本坂上氏からは平姓を称した家系もあることや、多田神官家として山本坂上氏の名前がみえること、江戸時代の伊丹や池田で蔵元や文化人となった山本坂上氏の祖先の中に浦辺季猛の名前がみえることなど、多田源氏の本拠地周辺における山本坂上氏と浦辺太郎坂上季猛の事績が、説話に登場する卜部季武にどの程度の影響を与えたのか、今後の研究の成果が待たれる。
説話や物語との位置関係
現在知られる卜部季武の人物像は、15世紀初頭成立とされる『大江山絵詞』などの酒呑童子説話や、天和元年(1681年)頃の成立の『前太平記』などの通俗史書に依拠することが多い。
いずれも一級史実ではなく、後世に創出された物語であることから、内容の考証や誤謬の訂正から、実証的学風からは正確な史実とはほど遠いものといわざるを得ないのが実情である。
説話にみる卜部季武
卜部季武に関する説話は、『今昔物語集』や『古今著聞集』などがある。
『今昔物語集』では平季武として、巻27-第43「頼光の郎等平季武産女にあひし話」、巻28-第2「頼光の郎党共紫野に物見たる語」に頼光の郎党として登場する。
また『古今著聞集』巻9-弓箭-347「弓の手利き季武が従者、季武の矢先を外す事」に卜部季武として登場。
ただし『今昔物語集』は平安時代末期に成立したとされる説話集で、成立時期について最も古くても1120年代と、頼光の死から数えて約100年後となる。『古今著聞集』にいたっては時代を下った鎌倉時代中期の成立である。
これらは「説話文学」で「歴史史料」ではない。説話は、日記と物語の間のような位置にあり、しばしば史実との食い違いもみられるため、内容をそのまま史実として受け取れない。
上記の説話などから卜部季武の実像は主に、
- 父を平季国(満仲の老臣)、母を卜部尼公(卜部兵庫の娘)とする説
- 父を卜部兵庫季国とする説
の2説に求められる。どちらの説でも『今昔物語集』と『古今著聞集』を組み合わせ、卜部季武は平姓であり、通称を六郎としている点は共通している。
1.の説では、父方に平氏を置くことで、渡辺綱同様に母方の卜部氏を名乗ったとする。
平季国なる人物が承暦3年(1079年)に検非違使として活動した記録が残されているが、頼光の死没が治安元年(1021年)という事を考えれば、この人物が満仲の老臣ではなかったと思われる。
2.の説の場合、父方が占部や浦部などとも表記された古代の祭祀貴族の出身である卜部氏となる。
卜占を生業として諸国の神社に奉仕した卜部氏は、卜部平麻呂に始まる伊豆卜部氏や忍見命に始まる壱岐卜部氏などがある。しかし伊豆卜部氏、壱岐卜部氏共に宿禰姓のため、平姓を用いている事に疑問が残る。
信頼出来る史料は無いが、九州では桓武平氏の臼井六郎常有が占部を継いで占部兼安となった話が残されている。
物語の中の卜部季武
現存する最古の酒呑童子の物語は15世紀初頭、南北朝時代に描かれたとされる香取本『大江山絵詞』である。
この頃からさまざまな伝説が創作され、史実や説話から離れた物語上の人物として弓の名手・卜部季武の伝説化が進んでいく。
慶応義塾大学図書館蔵の絵巻『しゆてんとうし』では「ひせんの国」(備前国もしくは肥前国)「よしをか」の「もりつね」という鍛冶が打った「あさまる」(あざ丸?)を所有している。
他に神楽「土蜘蛛」「子持山姥」「滝夜叉姫」に登場することでも有名。