概要
政治家としての素養をもち、管絃も良くし、父の寵愛を受けていた。
大同二年(807)、謀反を企てたとして逮捕された 藤原宗成 が、首謀者は親王であると自白したために捕らえられ、母とともに大和国川原寺に幽閉された。無実を訴えたが受け容れられず、翌日母と共に服毒自殺した(伊予親王の変)。この背景には皇位継承をめぐる貴族との抗争があったと考えられる。弘仁十年(819)に親王の無実が明らかとなり本位に復され、貞観5年(863)の神泉苑での御霊会では母子ともに祀られた。京都市上京区の上御霊 神社に奉祀されている。
この事件は藤原仲成が宗成を操って、平城天皇およびその側近の対立者を朝廷から排除する意図のもとに起されたものとする説があるが、確証は無い。
京都市伏見区桃山町の巨幡墓は、親王の遠墓とされている。