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名越光時

なごえみつとき

名越光時とは、鎌倉時代の武将・御家人。本家である北条得宗家に対抗し宮騒動の首謀者となるも、陰謀は頓挫し伊豆へ追放された。(生没年不詳)

概要

生没年:不詳

 名越流北条氏の祖・北条朝時の長男で、北条光時とも呼ばれる。弟に名越時章(名越流北条氏2代目)・教時らがいる。
 父・朝時は鎌倉幕府2代目執権・北条義時の次男でありながら、正室所生の子であった事から当初は兄・泰時を差し置いて嫡男と扱われていたものの、とある事件が原因で将軍の怒りや父の勘気を蒙り義絶され、嫡流からは外れる憂き目に遭った。
 家祖・北条時政の屋敷の所在地にちなんで「名越」を称した朝時の系統は、北条氏の有力な庶家の一つとして本家である得宗家に次ぐ家格・勢力を有していたものの、その家格の高さや「本来は嫡流」との意識の強さ、そして朝時生母の出身である比企氏と縁戚関係にあった一族の支持を受けていた事から、得宗家からは常に警戒視される立場にあった。光時もまたそうした環境の中で育ち、長ずるにつれて得宗家への対抗姿勢を示すようになっていく。

 一方、得宗家に対する反感を抱いていたのは光時だけではなかった。幼くして将軍として迎えられながらも、執権の傀儡という立場に甘んじていた鎌倉幕府4代将軍・九条頼経もその一人であり、成年に達した頼経は将軍親政を志向して、名越流や三浦氏といった反執権勢力の糾合を画策していたのである。
 無論、時の執権・北条経時もこうした動きを懸念しており、寛元2年(1242年)には頼経を将軍職より退け、嫡男・頼嗣を第5代将軍に擁立。さらに頼嗣に妹を嫁がせ姻戚関係を結ぶなどの対抗策を取るものの、頼経の烏帽子子でもある経時の立場上頼経ら一派への締め付けも限界があり、頼経は引き続き頼嗣の後見という名目で鎌倉に留まり、幕府内で隠然たる勢力を示し続けた。

 事態が大きく動き出したのは寛元4年(1246年)閏4月、経時が病により早逝した事による。既に執権職は弟の時頼が継承していたが、その際にも光時は「我は義時の孫なり、時頼は曾孫なり」と述べるなど、公然と反抗姿勢を示していた。そして経時の死を好機ととらえた光時は、頼経やその側近らと結託し時頼を武力をもって排除しようと動き出した。
 しかし機先を制したのは時頼側の方であった。鎌倉市中に近隣諸国の武者たちが群集し流言が乱れ飛ぶ事件や、翌月末に発生した地震の後に鎌倉と外部との連絡を遮断するなど、一連の動きを通して既に陰謀は露見している事を、時頼は光時らに対して言外の内に示したのである。
 ここに至って光時らも陰謀の頓挫を悟らざるを得ず、弟の時幸と共に出家の上降伏。さらに去就を曖昧としていた三浦氏も時頼への恭順の意を示した事で、時頼側の勝利は確実なものとなった(宮騒動)。

 この事件の後、光時は所領没収の上伊豆へ配流の身となり、その後の動向についても史料に残されていないなど、歴史の表舞台からも姿を消す事となった。その思惑とは裏腹に、宮騒動を通して却って執権による専制体制の強化という皮肉な結果を招いた光時であるが、得宗家への反抗姿勢はなおも名越流内に燻り続けており、これが後年の二月騒動へと繋がっていく事となる。

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鎌倉時代 鎌倉幕府 北条氏 得宗 北条経時 北条時頼

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