概要
生 没:不詳(※) - 正安2年(1300年)?
別 名:北条光時、蓮智(法名)
官 位:越後守、右馬助、正五位下
名越流北条氏の祖・北条朝時の長男で、北条光時とも呼ばれる。弟に名越時幸・時章(名越流北条氏2代目)・教時らがいる。
(※ 長弟の時章の生年が建保3年(1215年)であることから、少なくともそれ以前の生まれであろうと見られる。)
生涯
光時が生を受けた名越流北条氏は、北条氏の有力な庶家の一つとして本家である得宗家に次ぐ家格・勢力を有しながらも、一方でその家格の高さを本家である得宗家より警戒視されていた事、さらに父の朝時が祖父の義時や伯父の泰時を差し置いて北条氏の家督継承者に目されていた事などから、父の代より「本来は嫡流」との意識が強く、光時もまたそうした環境の中で育ち、長ずるにつれて得宗家への対抗姿勢を示すようになっていったとみられる。
一方、得宗家に対する反感を抱いていたのは光時だけではなかった。幼くして将軍として迎えられながらも、執権の傀儡という立場に甘んじていた鎌倉幕府4代将軍・九条頼経もその一人であり、成年に達した頼経は将軍親政を志向して、名越流や三浦氏といった反執権勢力の糾合を画策していたのである。
無論、時の執権・北条経時もこうした動きを懸念しており、寛元2年(1242年)には頼経を将軍職より退け、嫡男・頼嗣を第5代将軍に擁立。さらに頼嗣に妹を嫁がせ姻戚関係を結ぶなどの対抗策を取るものの、頼経の烏帽子子でもある経時の立場上頼経ら一派への締め付けも限界があり、頼経は引き続き頼嗣の後見という名目で鎌倉に留まり、幕府内で隠然たる勢力を示し続けた。
事態が大きく動き出したのは寛元4年(1246年)閏4月、経時が病により早逝した事による。執権職は直ちに弟の時頼へと継承されたが、その際にも光時は「我は義時の孫なり、時頼は曾孫なり」と述べるなど、公然と反抗姿勢を示していた。そして、経時の死を好機ととらえた光時や弟の時幸は、頼経やその側近らと結託し時頼を武力をもって排除しようと動き出すに至る。
しかし機先を制したのは時頼側の方であった。ほとんど同時期には鎌倉市中に、近隣諸国の武者たちが群集し流言が乱れ飛ぶという事件が発生。これが光時らを混乱させたと見られる。さらに翌月末に発生した地震の後、時頼は鎌倉と外部との連絡も遮断しており、一連の動きを通して既に陰謀は露見している事を、光時らに対して言外の内に示したのである。
ここに至って光時らも陰謀の頓挫を悟らざるを得ず、時幸と共に出家の上降伏。後に光時は所領没収の上伊豆の江間郷へと配流され、時幸は自害を命じられたという。さらに去就を曖昧としていた三浦泰村(弟の光村は光時を烏帽子親として元服していた)も時頼への恭順の意を示したことで、時頼側の勝利は確実なものとなった(宮騒動)。
宮騒動、そしてその後発生した宝治合戦は、光時らの思惑とは裏腹に却って反得宗勢力の弱体化と、執権による専制体制の強化という皮肉な結果を招いた。しかし、得宗家への反抗姿勢はなおも名越流内に燻り続けており、名越流と得宗家との対立に一応の終止符が打たれるのはこれより四半世紀余り後、光時の又甥に当たる北条時宗の治世下まで待つこととなる。
ともあれ、その後の光時の動向については史料に殆ど残されておらず、弘長2年(1262年)に叡尊(真言律宗の祖で、この年の前半に関東に下向していた)から菩薩戒を授けられたこと、子孫が江間氏を称したことなどが記録されている程度である。
没年についても、江戸末期に成立した『系図纂要』に拠るため再度の検討の余地はあるものの、弟の時章の生没年を踏まえるに80代半ばを過ぎた頃まで存命であったと推察される。