解説
プロフィール
生没年:生年不詳~治承4年8月24日(1180年9月4日)
幼名:若王丸とする説あり
通称:三郎
母:伊東祐親の娘
弟:北条義時(鎌倉幕府2代執権)、北条時房(六波羅探題南方、鎌倉幕府連署)ら
生涯
生年も含めてその生涯には不明な点が多く、政子が妹か姉かも不明となっている。
治承4年(1180年)8月、源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵に及ぶと、義兄弟の関係にあった宗時も父や弟らと共にこれに加わり、平家方の伊豆目代・山木兼隆襲撃の先導役を務めた。
その後三浦一族との合流を図り相模へ向かう途上、石橋山にて平家方・大庭景親率いる3000の軍勢と交戦し頼朝軍は潰走。再起を期して軍勢が散り散りとなる中、宗時も甲斐の武田信義の元へ向かった父・時政や弟・義時と別れ伊豆へ落ち延びようとした途中、本領である北条に程近い伊豆平井郷(現・静岡県函南町)の早川にて、平家方の伊東祐親の軍勢に囲まれ討ち取られた(石橋山の戦い)。
後に同じく石橋山合戦にて討死した狩野茂光と共に、最期の地に程近い大竹神戸坂に宗時の墓が建立されており、現在でも「ときまつさん」こと宗時神社として祀られている。