概要
藤内 光澄(とうない みつずみ)とは、平安時代後期に存在した武将。源頼朝の御家人である堀親家の郎党であり、生年は不明ながらも、没年は元暦元年6月27日(1184年8月12日)とされている。
歴史的に見て、活躍と言えるほどの活躍は殆どしておらず、彼が名を残したのは唯一、源義仲の息子である源義高を討ち取りながらも、それが理由で殺された。
つまりは、主命に従ったことで殺されたという、理不尽な仕打ちを受けたことによるの。
余談であるが、彼の主君堀親家も、比企の乱の際に理不尽な最後を迎えている。(比企討伐に憤慨した源頼家が北条時政討伐の書状を和田義盛に届けさせたが、義盛が時政に密告したため、使者であった親家も殺害された。)
略歴
元暦元年(1184年)この年の1月に攻め滅ぼした源義仲の子で、頼朝の長女大姫の許嫁として鎌倉にいた源義高が父の仇と遺恨を抱くことを懸念した頼朝は、義高の誅殺を計画する。
しかし、その計画が大姫に知られたことで、大姫の手引きにより源義高は鎌倉を脱出する事に成功するが、この事を知った頼朝は、御家人である堀親家らに命じて、義高を追討させる。
この追討使に加わっていた光澄は義高を捕捉して入間河原で義高を殺し、鎌倉に帰ってこの事を復命した。
この一件は内密にされたものの、やがて大姫に伝わり、これがきっかけで大姫は病床に伏すほどに衰弱してしまった。
その様子を見た大姫の母である北条政子は、たとえ主命といえども事前に大姫に相談するなどの便宜を図らずに義高を殺した光澄を憎み、頼朝を押し切る形で光澄は獄門にかけられた。
繰り返すが、光澄が源義高を討ったのは、源頼朝の命令であり、光澄自身の私情ではない。
鎌倉殿の13人
キャスト.長尾卓磨
頼朝が義高に対する殺害命令を出したもののその事を妻である政子に知られたことで撤回命令を出したのだが、頼朝からの殺害命令の撤回を知らずに義高を討ち取ってしまい、意気揚々と頼朝の元を訪れ、義高の首を届ける。
だが、それらの行動は鎌倉殿御台所の政子の逆鱗に触れることとなり、光澄はわけもわからぬまま処刑されてしまう。
最後の言葉は「何故だー!!」
なお、政子自身は「決して許さない」とは言ったものの直接的に「殺せ」とは言っておらず、光澄が処刑されたことを知らされた際には狼狽していた。