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概要

初出は第15回「足固めの儀式」。大江広元が発した台詞であると同時に、その主君である源頼朝の御家人らに対する統治の姿勢を端的に表した語句でもある。

第15回「足固めの儀式」

寿永2年(1184年)12月、後白河法皇の要請により、木曾義仲討伐に乗り出した源頼朝であったが、その裏では源氏内の勢力争いに巻きこまれることに対する御家人らの不満が膨れ上がりつつあり、彼らによる頼朝排斥の企ても密かに持ち上がりつつあった。

この不穏な空気を察知した頼朝は、謀臣・大江広元と一計を案じ、側近・北条義時を通じて御家人の中でも信望の厚かった上総介広常に、敢えて前述の企てに加わるよう依頼。結果、広常の働きかけもあって企ては未然に防がれ、直後に頼朝は広常を賞し彼と酒を酌み交わす。

・・・が、それらは全て広常一人に全ての科を負わせ、御家人たちへの見せしめとして処断せんとする、頼朝と広元の策謀の一端に過ぎなかった。

このことを知らされた義時は、話が違うと頼朝に抗議するも、当の頼朝からは他に誰がいるのかとすげなく反論され、そしてその場にいた広元もまた、

 「最も頼りになる者が、最も恐ろしい」

と、広常を切り捨てるべき理由がそこにあることを示し、頼朝もまたこれに同意するのであった。

結果、広常は頼朝の内意を受けた梶原景時の手により「謀反人」として万座の中で惨殺され、それを目の当たりにした御家人らに頼朝への恐怖心を植え付けるに至るが、ただ一人義時にだけは、それとは別の何かを残す格好ともなったのである・・・。

第40回「罠と罠」

その上総介広常の誅殺から29年。

頼朝からその子・源実朝の治世へ移って久しい中、頼朝旗揚げの頃からの数少ない生き残りの一人にして、侍所別当でもあった和田義盛は、朝廷から課せられた閑院内裏の修復や、幕政を壟断していた北条義時の姿勢に対し不満を抱く御家人たちの信望を集める存在となりつつあった。

こうした状況を苦々しく感じていた義時、それに公文所執事となっていた大江広元は、義時誅殺を企てた「泉親衡の乱」に和田一族の者が関与していた事実を利用し、彼らを蜂起させた末に「謀反」の廉で族滅せんと画策する。そしてこの企てを巡らすに当たり、義時が広元に対して口にしたのが、

 「最も頼りになる者が、最も恐ろしい」

そう、かつて広元が広常のことを評したあの言葉であったのである。それは義時が、頼朝や広元の冷徹な政治姿勢をつぶさに目の当たりにし、そして長きにわたる権力闘争の果てにそれを自らのものとした証でもあった。

かくして、義時は乱の参加者として挙げられた子息らや甥の赦免を嘆願してきた義盛に対し、子息二人は許す一方で甥の胤長だけは頑として赦免を認めず、さらに釈放を求めて御所に押し寄せた和田一族98人の前で、胤長を囚人のごとく引き回してみせた上、流罪に処された彼の屋敷を和田一族ではない御家人に下げ渡すなど、和田一族の心情をことごとく逆撫でするかのような仕打ちに打って出た。

そして建暦3年(1213年)5月、これらの仕打ちが積もり重なった末に、和田一族は義時の思惑通り挙兵に及ぶこととなる・・・。

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最も頼りになる者が、最も恐ろしい
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