概要
生没年 不詳
出自もわかっておらず、平重盛の次男・資盛の子とも曾孫とも伝えられている。
鎌倉幕府の実力者・得宗・北条義時に家司(北条氏個人の家来)として仕え、侍所の所司(次官)、承久の乱後には安芸国巡察使を歴任、元仁元年(1224年)の「御成敗式目」制定にも奉行としてかかわるなど、第3代執権・北条泰時を実務面で支え、泰時の死後も第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼兄弟に仕えつづけた。
略歴
文暦元年(1234年)、得宗家の家令となる。
仁治3年(1242年)、出家して引退、建長5年(1250年)3月の記事には、すでに死亡したとあるが、詳細は不明である。
第8代執権・北条時宗、第9代執権・北条貞時父子に仕え、「平禅門の乱」で滅ぼされた内管領・平頼綱は盛綱の孫であり、鎌倉時代末期の内管領長崎円喜・高資父子は盛綱の子孫である。