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長崎高資

ながさきたかすけ

鎌倉末期の武将。北条得宗家被官(御内人)の中でも筆頭格に当たる内管領として、父・長崎円喜と共に最末期の鎌倉幕府の実権を掌握した。(生年不詳-1333年)

概要編集

長崎円喜(盛宗・高綱)の子。

北条泰時経時時頼に仕えた平盛綱の子孫とされる。


北条得宗家(北条氏の宗家)の被官である長崎氏は、その筆頭として泰時以来得宗家の執事を代々務める家柄であり、高資も父・円喜より正和5年(1316年)頃に内管領の地位を受け継いだ。当時の幕府はその頂点たる将軍ばかりでなく、それまで実質的に幕府を主導していた執権もまた立場の形骸化を引き起こしており、そのような状況下において高資は執権に代わって幕府内にて多大な権勢を振るった。


一方で、その働きぶりについては様々な問題や対立を孕んだものでもあった。例えば元亨年間に奥州津軽にて発生した蝦夷の蜂起と、それに端を発した安東氏の内紛(安東氏の乱)に際し、その裁定に当たったはずの高資は当事者の双方から賄賂を受け、それぞれに都合の良い下知を下してなかなか明確な裁定を下さなかったという。結果として安東氏の乱は幕府軍の介入にもかかわらず、解決まで10年近くもの期間を要する事となり、幕府の威信を傷付ける要因の一つともなった。

また当時の執権で主君でもある北条高時が、正中3年(1326年)に病を理由に出家すると、その後継者の座を巡って高時の嫡男・邦時を後継者に推した長崎氏と、高時と縁戚関係にあり高時の弟・泰家を推挙した安達氏との間で内紛が勃発。結果的に金沢貞顕が15代執権に就任した。しかし、泰家や安達氏側の圧力によって辞任に追い込まれるという事態にまで発展した。最終的には邦時が後継者としての地位を確立、後任の執権に赤橋守時が就く事でひとまずの幕引きとなった。


このように、得宗家の家督相続や執権の就任に至るまで専横を振るう高資に対し、予てより反感を抱いていた主君・高時は秘密裡に討伐を企図するが、その企ては程なく風説という形で露見したようで、長崎高頼(高資の叔父とも)を始めとする側近らが処罰された。高時自身は計画への関与を否定して処分を免れるも、この一件は当時の得宗家当主と内管領のいびつな立場関係を如実に浮き彫りにする結果となった。

やがて後醍醐天皇を中心に倒幕の機運が「正中の変」を皮切りに諸国に広がる中、元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞率いる倒幕軍が挙兵し鎌倉に迫った。追い詰められた北条一族や、幕府の中枢を担っていた者たちは鎌倉の東勝寺に篭もり、遂には自害に追い込まれた。高資もまた例外ではなく、父・円喜や嫡男・高重らととも運命を共にした。


関連項目編集

鎌倉時代 内管領 執事 北条高時

西岡徳馬大河ドラマ太平記』における高資役。西岡は前年の『翔ぶが如く』に続いて2年連続での大河ドラマ出演であり、また『太平記』から10年後に放映された『北条時宗』では名越流に与する足利泰氏(斯波・大崎・最上などの祖)を演じ得宗家と対立している。

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