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概要編集


1118年、千葉を最初に名乗った祖・千葉常重の子として生まれる。

千葉氏は平良文(平将門のおじ)の家系で平忠常をはじめとする家柄。来孫にあたる。

別名は千葉介、官位は上総・下総の権介(ごんのすけ、介の予備役)


1130年、父は所領の一部を神宮(伊勢神宮)に寄進したが、当時の下野守・親通に逮捕されてしまう(この理由として、寄進した所領からの年貢が納入されていなかったため)。しかも横領された。

その後は源義朝からも書状を取られたりと散々な目に合ってしまう。


跡を継いだ常胤は下総国衙に納品を納め、相馬郷を返却してもらうことに成功。

何とか父の無念を晴らす。


保元・平治の乱編集


保元の乱時は義朝のとともに戦う側として出陣。かつて自らの土地を取ろうとした人物の下で戦っているが、これは下総の国衙からの命令であって、義朝の郎党ではなかったという見方が強い。


平治の乱においては義朝が戦死した為、地元に帰るも、ここでも問題が起きる。

常陸佐竹義宗が元・下総守である親通とその義父とともに相馬郷を手中に入れた後に伊勢神宮に寄進するという事件が起きる。



このことに常胤は神宮の神職に話を取り次いでもらったが、うけおった禰宜同士が対立。

結果は佐竹義宗の裏工作などにより佐竹側が勝訴する事態となった。


時を同じくしたころ、平治の乱の戦後処理で流れてきた源頼隆を監視している。

ただ、監視とは表向きであり、大切に育てていたらしい。

(頼隆の子孫は森蘭丸などが出ている森氏となる)



頼朝挙兵編集


伊豆で頼朝が挙兵すると、これに応じて挙兵する。最初は下総国衙を孫・成胤に攻めさせた。

しかし、当時の下総守・藤原親政が報復に千葉荘を襲撃。成胤は親政と合戦に及んだ末に彼を捕縛している。(親政は親通の孫にあたり、千葉一族と因縁を持っていた)


常胤自身は頼朝のそばで活躍。上洛を焦る頼朝をたしなめるなど、ブレーキ役になっていたという。

また、頼朝に佐竹義宗討伐を進言したり、同族の上総広常が殺されると房総平氏の惣領を手にするに至るなど流れが常胤に行くようになっていく。


そして、奥州合戦にも参加して奥州にも所領をいくつか持つ。

また、香取神宮の地頭として千葉氏が後世まで影響を及ぼすきっかけも作った。


1201年に死去。苦労しつつも最後まで奮闘した彼は千葉氏中興の祖として子孫たちからも尊敬された。



子孫編集


相馬氏、武石氏、大須賀氏、東氏が子供の代から分家した。

さらに江戸時代まで下ると、現代剣道の祖の一人である北辰一刀流千葉周作に行き着く。

相馬氏は佐竹氏から婿養子を迎えて後、互いに養子を送り合って同族化した。秋田県知事の佐竹敬久は相馬氏と佐竹氏の女系子孫である。

武石氏は陸奥で亘理氏と称して戦国時代を迎え、伊達氏の傘下に入り伊達稙宗に娘を嫁がせて、その子を当主に迎えた。稙宗庶子で晴宗異母弟の亘理元宗は伊達一門の重鎮として伊達晴宗以後の当主に仕え、伊達政宗に仕えた孫が伊達定宗を名乗り嫡流は明治維新まで伊達を名乗り、明治維新以後亘理に復姓した。




関連項目編集


平氏 千葉県 源頼朝 上総広常


相馬盛胤義胤…常胤の次男相馬師常の子孫。

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