平忠常
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たいらのただつね
平忠常とは平安中期の武士である
康保4(967)年または天延3(975)年~長元4(1031)年
下総・相馬郡を拠点とする豪族。父方の叔父兼母方の祖父に平将門がいる。
祖父・良文の代から下総・常陸・上総に勢力を持っており、その武力を背景にして従5位下上総介に任官するなど中央の御墨付けを得ていた。
しかし長元元(1028)年、忠常は突如として安房国府、続いて上総国府を襲い、房総3か国を占領して叛乱を起こした(平忠常の乱)。朝廷からは平直方(将門を討った平貞盛の曾孫)が追討使となったが、士気が上がる忠常軍を相手に攻めあぐねてしまう。
2年後の長元3(1030)年、直方は追討使を解任され、代わって甲斐守である源頼信が追討使に任じられた。準備を整えたうえで房総へ出陣した頼信であったが、忠常軍も2年間の戦いで満身創痍となっており、長元4年に降伏した。
忠常は京へ護送されることになったが、途上の美濃で病死した。
忠常の子孫は、千葉氏・上総氏として房総半島に勢力を張る房総平氏としてその名を残していく。一方勝者である頼信は、以後坂東武士たちと主従関係を結びその勢力を増していく。
そして約150年後、治承・寿永の乱で頼信の子孫である源頼朝が挙兵した際には、忠常の子孫である千葉常胤・上総広常ら房総平氏も大きな戦力として活躍した。ちなみに平直方の子孫は、頼朝の舅である北条時政を始めとする北条氏(自称)と武蔵武士の熊谷直実(自称)であり、図らずも忠常の乱で戦った3者の子孫が同じ陣営で戦うことになった。
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