ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

康保4(967)年または天延3(975)年~長元4(1031)年


概要編集

下総・相馬郡を拠点とする豪族。父方の叔父兼母方の祖父に平将門がいる。


祖父・良文の代から下総・常陸上総に勢力を持っており、その武力を背景にして従5位下上総介に任官するなど中央の御墨付けを得ていた。

しかし長元元(1028)年、忠常は突如として安房国府、続いて上総国府を襲い、房総3か国を占領して叛乱を起こした(平忠常の乱)。朝廷からは平直方(将門を討った平貞盛の曾孫)が追討使となったが、士気が上がる忠常軍を相手に攻めあぐねてしまう。

2年後の長元3(1030)年、直方は追討使を解任され、代わって甲斐守である源頼信が追討使に任じられた。準備を整えたうえで房総へ出陣した頼信であったが、忠常軍も2年間の戦いで満身創痍となっており、長元4年に降伏した。

忠常は京へ護送されることになったが、途上の美濃で病死した。


忠常の子孫は、千葉氏・上総氏として房総半島に勢力を張る房総平氏としてその名を残していく。一方勝者である頼信は、以後坂東武士たちと主従関係を結びその勢力を増していく。


そして約150年後、治承・寿永の乱で頼信の子孫である源頼朝が挙兵した際には、忠常の子孫である千葉常胤上総広常ら房総平氏も大きな戦力として活躍した。ちなみに平直方の子孫は、頼朝の舅である北条時政を始めとする北条氏(自称)と武蔵武士の熊谷直実(自称)であり、図らずも忠常の乱で戦った3者の子孫が同じ陣営で戦うことになった。


関連タグ編集

武士 平安時代 平家

関連記事

親記事

平家 へいけ

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 494

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました