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相馬義胤

そうまよしたね

相馬氏の2代目、16代目、18代目当主(2代目相馬中村藩主)の三名がいるがここでは16代目当主である長門守義胤について述べる。

概要編集

生没年:1548年(天文17年)~1635年(寛永11年)


相馬氏第16代当主。15代当主相馬盛胤の長男。生母は懸田義宗の娘。仮名は孫次郎。官途名は長門守。

相馬氏の嫡男として育ち、1560年に伊達稙宗の娘である越河御前(血縁としては大叔母にあたる)を正室とし、1563年には初陣で反乱を起こした青田顕治・草野直清の鎮圧に参戦した。


1565年の稙宗の死により伊達氏と相馬氏の関係は悪化して伊具郡を中心に争う事になり越河御前と離縁した。1578年に父の隠居により家督を相続、蘆名氏や佐竹氏、二本松氏ら反伊達氏の大名と共に伊達輝宗政宗親子と長く争い一時は伊具郡に勢力を拡大するも、1588年に縁戚関係にある田村氏の内紛に乗じて政宗と対決して敗れ、伊達氏が蘆名氏を滅ぼす等急速に勢力を拡大する事によって絶体絶命の不利な状況に陥るが豊臣秀吉による奥州仕置で所領を安堵された。


以後は豊臣政権に服属して朝鮮出兵の際は名護屋城に在陣している。関ヶ原の戦いでは徳川方に付かなかった事で1602年に改易となったが、改易撤回の運動により所領を安堵された。

家督を継いでいた子の利胤が義胤に先んじて死去した後は跡を継いだ孫の義胤(18代目当主。幼名虎之助。諱は祖父と同じ)の後見人を務めている。孫の義胤の代で男系は断絶し、土屋氏や佐竹氏から婿養子を迎えて女系で血統は維持されている。特に佐竹氏とは江戸時代に養子を送り合うなど親密な関係を維持した。


ちなみに2代目当主も相馬義胤(初代・師常の子。千葉常胤の孫)である。


関連項目編集

東北勢 戦国武将 相馬盛胤 伊達政宗

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